口発音VS喉発音
アメリカでも日本のニュースが見れることがわかった。ケーブル放送で、1日中やっている。餃子のニュース、、、これは大変ですね。皆さん気をつけてください。 英語ニュースのアンカーで日本人なんだけど、バイリンガルの人がやっている。英語はどう考えても、小さいときにアメリカに住んでいたんだ、、、ということが分かる。その人は当然喉発音。で、コメンテーターの人が出てきて、その人と語り合うのだが、その人は日本で育ったことが分かる。口発音だからだ。 喉発音 対 口発音で、まず分かるのは、音程である。喉発音の人は、顔は日本人なんだけど、アメリカ人男性と同じようなすごみのある声をだす(なんか、声の感じがCNNのLOU DOBBに似ている)。もう一人の日本人の人は、男性なのだが、ちょっと上ずったような声だ。口発音だから、すこし声が高くなる。英語は流暢だし、3ビートのそれなりにこなされているが、口発音である。 そのやり取りを聞いていると、喉 対 口 の応酬というかんじである。 思うのだが、喉発音ができている人には、相手が口発音だということが明らかにわかる。でも、口発音の人には、相手が喉発音だということはわかりにくい。 なぜだろう。喉音というのを脳が自動的に、「あ、これは言語の一部ではない」と判断して取捨しているのではないだろうか。 逆に、喉話者にとって喉音は、音を区別するために非常に大切な情報。当然、脳ががんばって喉音を聞いている。口発音話者からはそれが得られないので、あまりにあきらかに、「あ、この人は口発音だなあ、、、」と思うのである(あくまでも無意識のうちに)。あくまでも無意識でのことなので、どのようにアドバイスしたらよいかは、喉話者にもわからない。 一方で口発音者は、喉発音者の英語が違うことには気づいているが、それは舌の動かしかたとかだろう、、、と思い込んでいるので、喉について意識して考えることはしないのである。
喉の旅
これまで長く英語を勉強してきている人、使って来ている人は、喉革命後は、ゆったりとした「喉の旅」に出発することになる。 喉の旅というのは適切な表現ではないかもしれないが、とりあえずそう呼ぶ。「あー、あれはそういうことだったんだ」とか、「だからあのとき通じなかったんだな」とか、、、色々と思い出す。 最近、色々なところで、そんな話を教えてもらった。私自身にも非常に興味があることだ。どのように人々が、「喉の旅」を始めているか。 私自身の喉の旅を紹介するまえに、あることを書いておきたい。喉が20年前、いや30年前に発見されていたら、どんなに私自身の大学教育などが意義のあるものになっただろうか。20年前、授業をとっていながら、フランス語など本当にやる気がしなかった。MOTというのは言葉という意味だが、そんな単純な単語でさえ、通じないというのは、自分で発音していて分かった。大学院はアメリカのシカゴ大学だが、当然、英語で受ける授業など、苦労があった。 中学のとき、喉から英語を始めていたら、高校卒業までには、ぺらぺらだったはずだ。大学教育や留学などが本当に楽にできただろう。英語を単に道具として使い、勉強している内容を中心として吸収できただろう。 まあ後悔はそのくらいにしておいて、私の喉の旅の話をしたい。あー、だから通じなかったんだ、、、とか、そういう話だ。 私は、喉革命以前、非常に不満だったことがある。それは、自分がネイティブに何かを言っていて、途中で息継ぎのために、音の流れが止まったとき、まだ自分が話を終えてないのに、ネイティブがWHAT?(え、何?)と聞いてくることだった。今は全然そういうことが起こらない。あれはなんだったんだろう。 原因は、よく分からんが、一つには、例えば、その文がWHATと始まっていたとする。Wはゲップエリア発音なんだけど、前は口で発音していたから、Bに聞こえたのかもしれない。だからWHATで始める文でも、いきなりBATと聞こえていたのかもしれない。すると、ネイティブは文を途中ぐらいまで聞いたうえで、あ、BATじゃなくて、WHATか、、、と、後戻りして考えていたのかもしれない。 あるいは、単語を一つ一つ区切って発音していたので(3ビートをしらなかった)、文の途中でも、いきなり文が終わったと勘違いされていたのだろうか? あるいはただ単に口発音だったから、ネイティブが面食らっていたのだろうか。特に、目上の人に対して喋るときに、口発音がきつくなっていた。ボスなどと喋るときに特にWHAT?と問われたものだ。 日本語では、丁寧に喋るときに、口発音の傾向がますます強くなる。そのあたりが原因だったのだろう。 いや、息継ぎの仕方が悪かったのだろうか、、。そうに違いない。ネイティブは、まだ文が終わっていなければ、息を深くすうので、そのときに、息の音がする。だから聞き手は、まだ終わっていないな、、、と察する。私の場合、喉革命以前は、文の途中で、息継ぎのときに、鼻だけで息継ぎをするもんだから、スーという音がでず、それで、ネイティブは、「あれ、カズがいきなり黙ったぞ」と勘違いし、WHAT?と聞いてきたのではないか。 うん、そうに違いない。
リエゾンとは一体なんだったんだろう
リエゾンがあるから、英語は難しい、、、というような感覚があるが、リエゾンとはなんだったんだろう。 3ビートはネイティブが実際にしていることであるから、理論と呼ぶのも、気が引ける。ただ単に全てのヨーロッパ言語話者がしていることだ。あまりに当たり前すぎて、これまで誰も考えなかった。なぜなら、日本語話者以外のほとんどの人には、あまりにも当たり前な現象だからだ。 3ビートが発見されるまでは、人々はリエゾン、、、という概念を使って音がつながる現象を説明していたが、それにもちぐはぐさがあった。カタカナで考えて、音が変わる、、、と思われるところだけをリエゾンと呼んでいたのである。 例えばTAKE IT EASYはカタカナ英語で書くと、テイクイットイージー。聞いたとおりをカタカナで書くと、テイキティージー。テイクイットの「クイ」のところが「キ」にあってるぞ!!!というところを説明するために、リエゾン、、、という概念が借り出されていた。 ところが、それはただ単に日本語で考えたときに、大胆なカタカナ表記と、耳で聞いたとおりのカタカナ表記に違いがあるときだけ、借り出されていたのではないか。 3ビートで考えると、とにかく、全ての音はあるパターンをもってつながるのである。子音ー母音ー子音をスムーズな塊とし、今度はその塊をスムーズにつなげていけば、全てのシラブルがリンクしていくわけだ。 だから、日本語の感覚で音が変わったとこだけ、リエゾンだ!と今までは理解して納得していたわけだ。 さらにリエゾンは単語と単語の間だけに起こるとされていた。 実際は、シラブルとシラブルのあいだがスムーズに読まれ、連結部がスウィングとフォロースルーとして読まれる、、、、これがまあ、リエゾンといえば、リエゾンだが、3ビートのおこすメカニズムであるわけだ。 とにかく、今後は、ここがリエゾンだ、、とかここはそうじゃないとか、考える必要がなくなった、、、とういことだろう。 これまでの指導法として、ここはリエゾンですから注意しましょう、、、とか言われても、それは発話を聞いた後なのだから、どうしようもなかった(すでに音声が終わっているため)。またリエゾンを予期しながら聞く、、、というのも、何億もある単語の組み合わせを暗記することは不可能だった。