この週末から1週間ほど帰国しますが、7月の10日(日曜日)の12時半から2時間ぐらい、三羽さんとの対談をネットラジオで放送する予定です。カレンダーに書いておいてくださいね。
さて、
昨日、日本語は掛け声に近く、意味が薄いと言ったが、考えれば考えるほど、たくさん例が出てくる。
例えば、日本のミュージシャンの多くは、日本語の歌詞などどうでもよいのだと思う。これは本当だ。実際、何を言っているか分からない場合が多い。先日、日本語のラップをやっている人がNHK INTERNATIONALのJ-MELOに登場したけど、歌っていることが、分からない。
でも多くの日本人にとって歌が分からなくても、慣れている、そんなもんだと思っているから、気にならない。
昔、浅田彰さんの構造と力という本がはやったが、これも難解な本だが、結構売れたというが、多くの日本人にとって、意味が分からなくてもそんなもんだと思っていると思うから、気にならない。
よく英語教育論で、「発音より内容が大切だ」と言っている人の書き物をみたら、わけが分からない場合があるが、これも、日本人の読者の多くは、「えらい人が言っているのだから、意味が分からなくてもOK」と思ってしまうだろう。
日本語は掛け声的な表現が多いことに気がついたのは、それは、私が会社のカフェテリアを経営している韓国人へしている挨拶がきっかけだった。
あにょはせよ~
かむさはむにだ~
みたいな挨拶をする。
かむさの部分はたぶん「感謝」だと思う。「はむにだ~」は、「します」という意味じゃないかなと想像する。
つまり、朝鮮語では、「ありがとう」は「感謝します」と言うのだと想像する。
これは英語と同じだ。THANK YOUは「あなたに感謝します」という意味がある。
日本語では、「ありがとう」だけど、これは単なる音の集まりであり、意味自体はない。ありがとうというのは、「ありがたい」、「あまりない」という元々の意味があるのだろうか???
しかし、ありがとう自体には、英語や韓国語のような直接的なる意味がない。
日本語の表現の多くは「かけ声」なのだろう。
「あけましておめでとう」かけ声である。「あけまして」は「年があけましたが」という意味だとは思う。「おめでとう」の直接的なる意味は薄いがこれはスローガン的だ。
英語はHAPPY NEW YEARだが、これは文字どおり、幸せな新年を!という意味だ。そういう意味だから、年があける大晦日の日にだってHAPPY NEW YEARと言うことができるし、年が開けて、厳密には正月(アメリカでは1月1日だけ)が終わっていても、最初に人にあったときに言うこともできる。
「あけましておめでとう」は掛け声で、年が明けたときにしか言わない。
この違いがあるのは、英語や他の言語では、単語に意味に詰まっているからだ(当たり前だが)。日本語は掛け声表現が多いのだ。多すぎて、何が「かけ声」で何が「本当の心の声」なのかわからなくなってしまう。
がんばれって「心の声」なのか?掛け声なのか?微妙に分からない。
「よろしく~」なんて表現も、それ自体の直接的な意味がない。英語だと、NICE TO MEET YOUだが、これは、直接的な意味を持っていて、「あなたに会って、ナイスでした」という意味だ。
日本人の英語の勉強方法は、日本語において、あまり意味のない表現、掛け声的表現を、どうやって英語にするかという、あほらしいことに全集中力をそそいできているように思える。
例えば、「よろしく」をどう英語にするか~~~~
なんてことを、ものすごい勢いで、勉強する。
あるいは、日本語論みたいなのがあって、よくこれは漫画の形式をとると思うのだけど、掛け声的な日本語を持ってきて、英語にはな~~~い~~~、と感動して、面白いと納得する。
ガイジンも苦労してい~~る~~~ぞ~~~と感動して、なんと日本語は深い言語なのか~~
と感動する。
ここで英語喉パラダイムからのお知らせがある。
英語をぺらぺら喋りたいならば、意味のないことを言わなければよいのだ。
よろしくと言いたい気持ちは分かるが、「よろしく」って掛け声であり、それは社交辞令だ。
言わないと気がすまないと思うが、意味はあまりない。
意味がないことを言わなければ、よいのである。
だから、「今後もよろしく」と言いたい場面では、そのときの気持ちを意味に忠実に言えばよいだけの話である。
うわ~、本当に楽しかった~~~~という気持ちだったら、
I HAD SO MUCH FUNとか言っておけばよいのだ。
「よろしく」と言いたいのは、それは、コミュニケーションがうまくいかず、とりあえず、何か意味がないけど、言っておきたいという感覚があるから、言いたいのであり、それを言いたい時点で英語におけるコミュニケーションは終わっているといえる。
相手と心と心のコミュニケーションができなかったということだ。
「がんばれ」という言葉だってあまり意味がないが、我々がよく使う言葉だ。
我々日本人は、成長し、日本語を喋るようになるプロセスで、言語の牢獄に閉じ込められてしまうのではないだろうか?
小学校では、「あいさつ運動」というのがあって、とにかく、挨拶をするという教育があったのだが、あれは、言語の牢獄に閉じ込められる最初の1歩なのか。
そして、中学、高校、大学と、教育の場で喋る、発言する、表現する、、、のは皆無。
会社に運良く入ったら、下の下のレベルから入るので、まったく発言することは期待されないのではない?特に、学校とか、役場だったら、先輩が守ってきた決まりとか、やりかた、文化がある。
それらを改良していく、そのためにコミュニケーションするという雰囲気がなかったりしません???
それは監獄なのです。
さて、最後にニュースがあります。恐いのは監獄に入っている事自体じゃない。それ以上に、監獄に入っていることを知らないということも恐いだろう。
でももっと恐いのは、
「他の人が監獄に入っているけど、監獄に入っていることを知らない」ということを利用する人がいるということじゃないか???
人々は羊的なのだけど、羊であることを知らない羊であり、その無知の無知的状態を本能的に知っている狼がいるということです。
その狼は、掛け声、スローガンをうま~~~く利用して、羊たちを右へ左へと動かしていくことでしょう。
私は英語喉のおかげで、この言語の牢屋から出ることができたと思うのだけど、本当に出れたかな???
日本語に意味を取り戻そう!!!!!
まずは英語でそれを経験すると、良い。
英語をうまく喋りたかったら、意味のないことを言わなければよいのです。
This entry was posted on Tuesday, June 28th, 2011 at 9:02 am and is filed under 喉. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed. Edit this entry.