劇場とは
私は、5歳の姪と電話で話すときに、日本語のむなしさを感じる。それは、姪の喋り方が、子供的なので、難しいことを言ったらいけないと思い、自分でも分かること、知っていることばかり聞いてしまう。 例えば、先日は、運動会だったそうで、「今度、運動会?」と知っていることを、確認するためだけに聞いてしまう。 何か、会話自体が劇をしているように感じるときがある。分かっていることを聞くという部分(いや、一生、この感じでコミュニケーションが続きそうな気もすることがある。) 先日、ある服屋さんで、アメリカ人の小さな子供がお父さんと見られる人と英語でぺらぺら喋っている。いや~、よく会話できますね、いくつですか?と聞くと1歳になったばかりだということ、それから、この子には、アラビックと英語の両方を教えているので、なかなか言葉が成長しなくてねえ、、、とそのアラブ系のお父さんが言った。 また、うちには、犬がいるが、ジーナが犬に対して、ぺらぺらと英語で話しかけている。相手は犬なので、それは無理だろうというようなことを聞いている。例えばだが、Aが好きがBが好きか?みたいなことを聞いている。 それにしても、うちの犬は、結構、複雑な英語を理解する。英語喉をしていない日本人よりも、おそらく英語の聞き取りができると思うことがある。いや、これは本当だ。高速のスピードで喋っていても、食べ物の名前を確実に聞き取っている。 さて、同じフロアに、耳の聞こえない高校生がいて、リップリーディングをするらしいのだが、回りの人が、あまりにゆっくり、大げさに喋ることに幻滅しているらしい。 日本人の幼児は、喉発音で日本語を喋るので、日本人の大人が、普通に喋ったら通じない、、、という感覚が私にはある。この癖がどうしても抜けない。 また、日本語は情報伝達のスピードが遅いように思える。シラブル自体の発射はダダダダと速いのに。伝達のスピードが遅いので、ちょっと長い単語を、5歳児に言っているうちに、通じているかどうか、不安になる。だから、あまり難しいことを言ってはいけないという気持ちが働く。 そういえば、日本のバラエティーショーや、ニュースなどで、日本人が日本語で喋っているのに字幕が日本語で出たりする。これは、日本語が少し分かりにくということの証拠じゃないだろうか?内容を表現するのに、ものすごい数のシラブルを要する言語だから、聞いているうちに、今聞いたことを忘れてしまいがち。政治家のスピーチなども分かりにくい。 また喋っているときに、笑えないというのがあるので、感情を伝えるために、文をできるだけ短くしたくなる。喋り終わってから、ハハハと言えるが、文を言っているときは笑えない。喉ブレーキをかけながら喋る日本語は、同時に笑ったりできない(喉がしまっていたら笑えない)。だから、長く喋るといけないという感覚が働くように思う。 英語は、笑いながらでも、あるいは泣きながらでも喋れる言語だというのが面白い。 日本語を喋っているときに、なにか劇をしているような感覚に襲われる。 まず自分の感情を(例 笑い)一旦、口発音のヒラガナにしてから(ハハハハ)、言い直すような。 しかし、もっとも大きな問題は、日本語のコミュニケーションが劇のようになってしまうことではない。劇だということを知っている人が100人のうちに1人(狼的?)ぐらいいる。その一人にとっては、後の99人(羊的?)をコントロールすることが容易なのじゃないかな? 実は、このことがもっとも大事な問題なのかもしれない、、、が英語発音や聞き取りの問題に戻ると、日本人は劇をやめないと、リラックスできない。リラックスできないと、首の根元をうまくつかって、多様な音をつくることが難しい。 最近、セミナーのたびに、ことごとくいうことがある。それは、お互いを同級生と思ってくださいということだ。日本語において、劇をしなくていいのは同級生とだけである。
本当に真剣に学びを経験している瞬間には、目は輝かない
よく日本の先生は、生徒の目が輝く瞬間が好きだというようなことをおっしゃるのだが、私は、これは日本の教育文化の数百年の勘違いだと思う。 だって、私が英語喉を教えていて、本当に受講者さんが、学んでいて、理解していて、出来ている瞬間に 目が死んでいるからだ。表情がない。 ところが、授業を始めて10分、20分ぐらいのとき、まだできていないときは、目が輝いている。笑顔だったりする。楽しそうだ。 ところが、発音がネイティブ化していることが自分で分かっているときの目は、死んでいる。表情がゼロである。さらに、テレビの前で、聞き取れていることを確認できている瞬間は無表情だ。 高校野球などでバッター席に立っている選手の顔をみてほしい。死んだ顔をしている。 生徒の目に輝きが、、、というのは、それは、生徒達が、先生の期待に沿おうとして、劇を演じているときだと思う。 英語喉セミナーの最初の10分、20分は、初対面の受講者さんだから、笑顔が出るし、目がきらきら輝く。 しかし、それは私たち日本人が、ぎゅーぎゅーづめのクラス(40人?いや45人?)を、小学、中学、高校と経験してきて、不可能な授業のなかで教師達が望むもの、 それはやる気とか、輝く目というやつだ。 まあ社交辞令である。 私はアメリカに住んでいるけれど、NHKがテレビで見れる。CHAROという番組を見ると、馬鹿にされたような気持ちになる。ちなみに、同じぐらいの時間に、昔で言えば、お母さんと一緒みたいな番組があり、子供に対してお兄さん、お姉さんが、きんきんした言葉で喋りかける。そしてCHAROだが、これもネイティブの人が、子供に喋るように日本人視聴者に対して、ゆ~くり喋りかける。 ちなみに、私と同じフロアに、耳の聞こえない高校生がいるのだが、そのお母さんが言うには、周りが、耳が聞こえないと思って、ゆ~くりと喋りかけてくるのが、この高校生は不満に思うらしい。馬鹿にしている、、、みたいに。そんなに、大げさに喋らんでも、わかるんじゃ、、、ということらしい(リップリーディングをするらしい)。 結局のところ、英語が聞こえないのは、日本人だけだ。いや、英語だけでなく、韓国語なども聞こえていない(カムサと発音してしまう。KAMSAなのに、、、と昨日、韓国人が日本人の韓国語は非常にまずいと言っていて、その例を教えてくれた、、、それはシラブルの区切りを聞いていないからKAMSAがKA-MU-SAに聞こえるのだ)。ネイティブは、なぜ日本人が英語の音が聞こえないのか分からない。だから、しまいには、赤ちゃん、幼児扱いをしているわけである。 これは、別に悪いということではないが、ええ加減、気づきませんか?と思うのである。 そのナレーターさんたちの目は輝いている。NHK INTERNATIONALに出てくる外人のレポーターさんたちは、ものすごいキンキンしたレポートをする。目が、顔が輝いている。英語の音程も上下するする。 それを見て、日本人は、それ、外人さんは、テンション高いなあと思うかもしれない。しかし、彼らは日本人の真似をしているのである。男性だったら、日本人のガールフレンドが「すごーい」とか言うときの表情をまねているのだ。さらに、そういう風にしないとテレビ局の編集さんも納得しないだろう。外人らしくないということで。こら、NHKインタナショナルは、外国に住む外国人のための日本紹介なのだ。しかし、どうしても日本人向けになってしまう。ジーナも前に、NHKインタナショナルのインタビューを受けたとき、オーディエンスはネイティブとか外国人だと分かっているのに、英語がゆっくりになってしまっていた。日本人が相手だと思ってしまうと、英語が変わってしまうのだ。 あるリスニングの本で、英語の音程は激しいと書いてある。思うに、結局、日本人は、英語喉実践者以外、英語の音が聞こえていないはずだ。だって、聞こえていたら、音程が激しいから気をつけましょうなどという発想は出てこない。 私は、英語喉以前でさえ、アメリカ英語の聞き取りは100%に近かったが、音程に気をつけると、聴き取れるとか発音ができるなんて、発想がなかった。自分でも聞き取りができないのに、聞き取りの指導をするというのは、とても、問題がある。英語発音の本の著者の英語を聞こうと思っても、どこにも置いてないのが不思議だ。 さて、ちょっと最後でずれたけど、今日、朝日新聞のサイトで読んだのだけど、耳かき店員を2人殺して、死刑にならなかった人のことが書いてあった。裁判員さん、いわく、その人が裁判の途中から、表情が変わり、反省しているように見えたとのこと。 またしても顔である。反省している顔だ。しかし、事件後の表情で、判決裁量のネタにしてよいものかどうか、私は疑問である。あくまでも、証拠に基づいて判決をするべきだ。 情状酌量をかんがみるということはありえるが、それはあくまでも事件の前、その瞬間のことだ。裁判の途中に反省の色が見えたなど、関係ないはずだ。 「反省」というのは、英語になりにくい。日本語に特有だ。そして、それは顔の様子である。 酒井さんというかただったか、芸能人の人で、麻薬で捕まっていた。あとで、裁判所の前で反省の挨拶をしていた。しかし、麻薬は、反省とかの対象じゃなくて、リハビリの問題だ。だから反省するより、まず、リハビリを受けて、立ち直るのがよいだろう。人はどうでもよい。
週末セミナーで学んだことの報告
昨日、土曜日は、お一人のかたに喉を教授した。セミナーの最初にテレビを見てもらったら、聞き取れないということでした。2時間後に見てもらったら、「はい、聞き取れます」とおっしゃって、実際に、口に出してシャドーイングできておられた。 最近、楽勝です。この2ヶ月ぐらい思い出したように、教えていたのです。最初のころは、発音は確実にネイティブレベルまで行くけど、1)聞き取りは、う~ん?という人が少しだけ存在した、2)なんとなく、信じ切れていない感じでお帰りになる人もいたかもしれない、、、? でも、最近、2時間で聞き取りがOKになるのが普通のように思う、、、というか楽勝に思えるようになった。ネイティブ発音になるのは、楽勝というより、当たり前になった。 不思議なこと。前は、PHDを持っている人は、口発音が抜けにくいと思っていた。DC付近には、高学歴のかたが多い。だから、あれ?私の中学時代の友人とかで英語知らなくても喉発音は楽に出来るのに、なぜ?と思っていた。 しかし、ここに来てPHDだろうが、PHDじゃなかろうが、聞き取りの向上率(および発音)が、当たり前のように2時間で成功するようになった。 その秘密は、私が皆さんとコメントを交換したり、あるいは皆さんが書いていることを読ませてもらったり、あるいは、実践者のかたが音声UPされているのを発見して、私が勝手に音声指導と称して、コメントしているあいだに、いくつかのことが明らかになったこと。 何回も書いたけど、特に効くと思うこと 日本語は早く、英語は遅い言語だということを、洗脳するぐらいのいきおいで理解してもらうこと。体で感じてもらうこと。手拍子を使って。昨日は、丸めた紙をボールのように投げながら、英語を喋ってもらった。MY NAME IZ という感じで言うときに、シラブルごとに紙の塊の空中に投げてもらう。日本語では無理。ヒラガナに合わせて、これをするのは無理。 さらに昨日は、会場(アパートのラウンジ)のソファーから、テレビのところに行くまでの間に(テレビを見てもらって聞き取りができることを確認してもらう)、私が、自分の歩くステップに合わせて、英語を喋ってみせてみた。 ここまでこの方法に固執している理由は、以前、一人のかたが、セミナーの後で、「まだシラブルの意味が分からない」と、メッセージをくれたこと。また、お一人、「う~ん、まだよくわからないけど、修行ですね」とメッセージをくれたのが、逆に悔しいと思ったこと。 以前、ずっと以前、XXさんの掲示板を見ていたとき(5年ぐらい前)、そこでの交わされているコミュニケーションは私には異常事態だった。学習者「これはどうやったらよいでしょうか?」、XXさん、あるいは先生的な立場の参加者さん、「こうこうこうしたらいいでしょう。」、学習者、「分かりました、やってみます。何事も修行ですね。」 思うに日本の「先生」たちは、生徒が修行というか、自習というか、頑張ることで、喜びを得ている。結果じゃなくて。私も高校教師のとき、その授業で分からせるというより、家で勉強させる、やる気をつけさせる、やらせる、ということが教育の目標だという感じの文化があったと思う。だから、私自身、授業に行ったとき、その授業の寸前に、生徒が、他の先生の授業の予習をやっていると、ちょっと腹がたった(笑)。といっても、彼らは、人のノート、訳を写しているだけだったと思うが。教師として、生徒が子分のように、自分のクラスのために、授業外で何かをやっている、、、というのが、なんとなく教師の楽しみ、、、という感じの文化があったと思う。 生徒が、その授業のとき、授業の瞬間、先生が説明した瞬間にできる、分かる、とかじゃなくてね。 そういえば、そうでしょ。日本の授業。先生が教える。分からん。問題集を見る。分からん。今度は参考書を見る。分からん、、、塾に行く、、、 って感じです。なんか、教師の目標が生徒に勉強の習慣をつけさせること、、、ってことになっている。でも、それって、生徒が40人ぐらいいて、もう教育活動が成り立たないという現実があり、もう授業なんてやっても無理だから、生徒のせいにするってことですよね。すると家が勉強の場所になる。すると、その家の親の考えだとか、収入レベルが(塾に行かせることができるので)、教育結果に返ってきませんかね。 もう一つ、とても効くと思うことがある。それは、英語にはッや伸ばす音がないんですよ、、、ということを指摘すること。それも、受講者さんが、そも間違いを犯したときに指摘する。そして、音が首の根元で継続しているのが英語だと指摘する。 <特に、Rのときに、首の下あたりをごろごろと鳴らすのを忘れる人が多いが、これは、音を伸ばして、Rを発音したと思っているということにある。つまり頭では分かっていても、音を伸ばすだけでRを発音したと思ってしまうということだ。これを指摘している。RがあればRの情報を相手に与えないといけない。これこそが基本の基本だ。音声学者がイギリス人はRを発音しないと宣伝しているが、あれは、イギリス人のRが日本人が聞くと、日本語の伸ばす音に聞こえると言うだけの話で、イギリス人はイギリス人なりにRを発音している。前にNURSEと言っても通じないとおっしゃったかたがいたが、ナーと伸ばすだけでRにならないのが原因だ。> これを知った上で英語を聞くと、やはり首の根元で継続している音に耳を傾けると思うんです。 さて、昨日は1人だったんですが、お陰で、ゆったり、まったりと、国産ネイティブ生産を楽しみました。でも3人ぐらいが一番かも。というのは、受講者さんが、他の人の英語を聞いて、学ぶというのがあるんです。例えば、BOOKっての、どうしてもブックっていってしまうけど、2,3回言っていると正しい音がでる。他の人が不成功していて、成功した瞬間が聞けるのって、面白いしためになる。 今回、声が大きくする方法、これいけるかもと思ったことがある。それは、日本人は周りに人がいると声が小さくなる。だけど、人がいても、大きな声を出してもいいだということを実感すること。 で、一回、大きな声で声を出してみるんです。人がいても。一回、2回やると、ふっきれる。今回実は、これは瞬間的に思った方法なので、ちょっといい加減にしか、指導しなかったので、来週は(3人)もっと、ちゃんと押してみる。 プールに入るとき寒いですよね。でもザボーンと浸かってしまうと、な~んだ水がぬるいじゃんとなる。 それと同じ。周りに人がいても、一回、大きな声を出してしまうと、なれる。 1992年、1993年、と私は京都の出町柳に住みながら、京橋の高校で教えていたので、京阪電車に乗っていた。夜の京阪電車の特急は、サラリーマン戦士達が疲れて寝ているので、シーンとしている。あるとき、アメリカ人の横に座ったので、喋りだしたのだが、シーンとしているのに、彼は、車両一杯に響くような声で話しはじめて、私はちょっとびっくりした。 まさに、おいおい、空気読め、、、という感じだったが、車両には、大きなネイティブ声と、私の中間ぐらいの音量の声(遠慮がち)が響いていた。英語で。 しかし、西洋の文化圏においては、公の場所でひそひそ喋る必要はないのである。 で、今度のセミナーでは、この考えを押してみたい。ラウンジで教えていると、アメリカ人が入ってきて、他のソファーに座る。 その瞬間に日本人は、声が小さくなる。 その瞬間をとらえて、声を大きくやってもらう。1,2度やれば、なれる。バンジージャンプというのがあるが、思いっきり飛ばないといけない瞬間があると思う。 さて、最後に、最近教えていると、日本人が外人っぽい感じになる瞬間がある。そのときに、よく、「あれ?外人っぽくなりましたよ」ということがあるが、それは言わないほうがよいのかな?とういのは言うと、また急に日本人っぽくなるからだ。 これはどうしたもんだろう。 しかし、外人っぽくなった瞬間、私の主観かもしれないのだけど、男性も女性も見かけがかっこよくなる。 主観かもしれないが、本当だと思う。なんとなく顔の緊張がとれて、大人っぽくなる。そして、なんとなく、洋画とかに登場する外国人の俳優や女優の雰囲気が出る。 皆さん、どう思う?洋画などを見ていると、そんなにかっこうよくない俳優さんでも、なんか、貫禄がある感じしません?堂々としているような? これは前、5人、7人ぐらいで教えていたときには決して起こらなかったことだ。3人ぐらいで教え始めて、起こり始めたことだ。 不思議だが、これはメカニズムがあると思う。