速く走るために腕を速くふれ
発音ができれば聞き取りができる、、、、 という言葉を耳にする。実際、喉においても、同じようなことを言っている。ところが、従来の言い方と、喉における言い方は意味がかなり違っている。 喉においては、どういう意味だろうか。喉においては、「発音」=「聞き取り」なのである。同時進行である。正確には、聞いて、喉でまねる。自分の言っていることを聞く、、、そしてネイティブの音と同じ音がでるように近づけていく、、と。 従来は口発音だったので、ネイティブの音に近づいていかない。そこで、言われていたのが、「がんばりましょう」とか、「繰り返しが大切です」とか、「とにかく続けることが大切です」だった。 喉は柔軟で音をまねる能力にすぐれた声帯を持っている。リラックスして豊かに響かせるならば、多様な音をうまくまねることができる(言語にかぎらず)。 日本人の喉は、日本語の短い音を超高速で作り出すために常に緊張している。したがって、物まね能力に限界があるのだ。 ちょっと実験してほしい。犬のなき声をまねてみよう。最初はカタカナで、ワンワン。そこからもっとリアリスティックなやりかたにどんどん近づけていってほしい。 すると自然の喉の奥へ奥へと発音地点、発声地点が移動していくような感覚を体験できるだろう。奥(首の中の喉)で発音していればいるほど、現実的な、犬的な音がうまく出せるのだ。 実際は、口で声が出ているわけではなく(口には声帯がないことは論を待たない)、喉で出ているわけだから、どんな発音でも喉発音なのだが、日本語的な発声は喉が緊張ぎみだ。だから、正確には、この「発声地点が移動していくような感覚」は勘違い。もともと喉で音は出ているのだが、緊張をほどいてやると、喉の奥へ奥へと発音点が移動しているような錯覚を感じるのである。 従来の言い方で、「発音ができれば聞き取りができる」とはどういうことだろう。出口のないトンネルのような感じである。聞き取りができないのは、発音ができないからだ、、、じゃあ発音をやろう、、と。 ところがその発音ができない場合はどうなるのか???? 速く走るために腕を速くふれ、、、と私は小学校時代の先生に言われたのだが、そのときはものすごく納得した。でも、早く走れないから腕も早く動かないのだ。出口のないトンネルのようなものである。 発音ができれば、聞き取りができる、、、というが、じゃあ発音はどうやったらできるのか、、、。 出口のないトンネルである。 「がんばりましょう」 「繰り返しが大切です」 「とにかく続けることが大切です」 となるのである。永久に出ることのできない迷図である。 社会学的な解釈を加えるなら、 師弟関係をつくりだすディスコース、、、と形容することができるだろう。 常に「教師」から「生徒」へと向かうディスコースである。 さらに、教師の立場にいる人がかならずしも、発音がうまくなくてもいいし、聞き取れていなくてもいい、、、という非常に変わったディスコースである、、、 さらにいうと、たとえばだが、聞き取り問題をつくっている試験委員さんでさえ(大学受験とか)、聞き取りができなくてもよい、、、という可能性さえある。おおいにありえそうである、、、聞き取りが得意な人は、まだまだ少ないので(これまで(喉以前は)聞き取りを可能とする原理が発見されていなかったのだから、聞き取りができないのは個人の責任ではない。) さらに、このディスコースは姿形をカモフラージュした「暗記問題」であるということも指摘しておきたい。教える側が、「答え」を持っていて、答え合わせをする、、、という言説戦略になっている。 だってしょうがない。教師の側からみると。 答えとは、たとえばWを言うときに唇を丸める、、、、ということを覚えておかないといけないわけだが、そのような項目はものすごい数があるわけだ。そして、実際の英文は何億ものパターンがあるわけだ。 This is a pen のイントネーションのパターン(何億もあるパターンのなかから)を教える側が一つ選び、指導するわけだが、じゃあ、I like that pen.だったらどうなるのか。何億も存在するイントネーションのパターンのどれを正しいとし、指導したらよいのか? 大学時代にESSをやっていたのだが、1年生を相手にスピーチを覚えてもらってコンテストをする、、、という企画があった。ある先輩は、1年生のスピーチをきいて、リガチャーAばっかり直していた。指摘しようとおもえば、何億もポイントがあるわけだが、なぜか リガチャーAだった。*** 喉の新しいパラダイム、「発音」=「聞き取り」という公式に対して、わけがわからん、、、とおっしゃるかもしれない。なんで言うことと聞くことが同じなの?と。 […]
喉なしに、英語が楽にしゃべれるようにはならない
喉のひとつのバクチは、本当に大切なことを、本当にできるようになる順番、指導法で書籍となったことだ。なにがバクチかというと、他のどのような本をみても、簡単で繰り返せる、、、というかんじの本なのだが(英語学習を体育系的な活動ととらえているからであろう)、その様式とかなり違う、、、のである。かなり違うのだから、最初は面食らうだろう。 ところが、この順番、やりかたでないと発音、聞き取りはマスターできないし、またこのステップを踏まないと英語ががんがんしゃべれないのだ。 私自身、もともと英語が、それなりにぺらぺらだったのだが、口でしゃべっているときには、緊張してしまいしゃべれないことがあった。会議などで、なぜか頭の中がブロックされてしったような感じになるのだ。 ところが喉でしゃべりだしてからは、しゃべりすぎか、、、と思うことがしばしばある。会議や発表などで。よく考えると、このしゃべりすぎ状態は、アメリカ人がやっていることと同じではないか。 喉は脳と連結したままで、あやつることができるようになるのではないか。 うーん、意味分かるかなあ、、、。 口をあやつりながらはしゃべれないのだ。口をあやつるには、かなりの脳エネルギーがいるのだと思う。考えながらしゃべれないのである。 口でやっているかぎりはアドリブが難しいのだ。 日本人以外の外国人が学会発表などで、それなりになまりはありながらも、洪水のようにしゃべっているのは、それは喉でやっているからだ、、、と思う。 英語発音や聞き取りができても、しゃべれないと意味がない。喉は、発音、聞き取り、そして長期的には英語の総合力をささえる鍵となる。喉なしに、英語が楽にしゃべれるようにはならない。喉なしに、英語をしゃべることは、水のなかで息をする、、、と同じぐらい無理度が高い。 ここまで書いて思ったことがある。日本には、表現を覚えて使おう、、、というようなアプローチが多い(「チャンクでしゃべる」という言い方もする)。文法を使うというよりは。これは結局のところ、口でやっていると考えられない=文法を使えない=アドリブでしゃべれない -->だから、表現を丸ごと覚えてしまおう、、、という発想が生まれたのではないだろうか。 たとえば、ビジネスの現場(たとえば工場)で使う英語表現集とかある。実際は、何億とおりものシチュエーションが現場では起こるわけで、100ページ程度の表現集では、対応が不可能である。 口だと、考えながらしゃべれないから文法をうまく使いこなせないのである。 ところが、日本人以外の世界のノンネイティブが使っているのは、文法であり、表現集ではない(ツーリストの場合は話が別だが)。 だから日本以外のほとんどの国には、ビジネスの英語とか生活の英語とか、ホームステイの英語とか、試験の英語、、、といったジャンルが存在しない。 喉でしゃべっていれば、脳を同時に使うことができる。だから同時に文法を使えるのだ。
英語喉と3ビートは単にネイティブが毎日やっていることである
英語喉と3ビートは単にネイティブが毎日やっていることである。それ以下でもそれ以上でもない。したがって、新しい理論、、、というふうに喉が語られる場合、ちょっと違う?かなあ、、、という気がする。 理論というと仮説検証とかいうことがあるから、間違っている可能性がある、、、というニュアンスがする。ところが喉と3ビートは、本当に単にネイティブがやっていることなのだ。 だから、たとえば、ネイティブに喉を説明するならば、うん、そうですよ、、、となる。もともと喉と3ビートは喉話者である共著者が発見したものだ。 ところがネイティブが言語学を勉強していると、話はややこしくなる。口も大切だ、、、とくる。勉強すれば、勉強するほど見えなくなるもの、、、それが喉である。3ビートのほうは、あまりにも当たり前なので、気がついてみるとネイティブも認めざるを得ない。 そもそもスペルにも書いてある単語がたくさんあるではないか。SUMMERがよい例だ。Mが二回繰り返されている。従来の音声学はなぜかこの二つのMを完全に無視していたのである。従来のパラダイムを勉強すると、目の前にあるものが見えなくなることがあるのである。 名前にもよく登場する。LARRYはラリーではない。あえてカタカナで書くならば、レイア・リーというかんじだ。Rが二回繰り返されるのだ(またAは二重母音である)。 よく見てみると2つあるでしょ。Rが。 新しいパラダイム、喉と3ビートで見えてくるものがたくさんある。それが見えてきている読者がたくさんいるのはうれしい。まだまだ従来の知識との違いに苦労してらっしゃるかたがいる。これは当然だろう。 とりあえずは忘れて後で帰ってきてみるのがベストだと思う。というのは、まずは乗ってみる、、、というのが大切だ。 私自身、喉だってのは分かるけどそれは母音だけでしょ、、、とか思い続けていた。2週間ぐらい。 勉強すれば勉強するほど、見えなくなるもの、、、 母音と子音の違いにあまりこだわらないでほしい。母音だったらこう発音する、子音だったらこう、、、というような考え方を捨ててほしい。 日本人は子音が弱いとか、母音が強いとか、そういう発想もいらない。子音と母音、、、という分類が存在するから、そういう発想が生まれたわけで、実際は、どうでもよいことだ。 勉強すれば勉強するほど、見えなくなる、、、 これには理由がある。勉強というのは、たいてい本でするものだ。本はもともと現実を説明しようとしたものだが、現実ではない。本と現実がずれている場合、現実から学ぶのでなくて、ちょっとずれてしまっている本から学ぶことになる。すると、勉強すれば勉強するほど現実が見えなくなることがあるのである。 対策としては、現実をしっかり観察することが大切だ。