英語をよい発音でぺらぺら喋るよりも、内容が大切だという考え方がある。

一理はあるだろうが、内容というのは、誰でも持っているものだ。例えば、音楽が好きな人は、自分の好きなバンドについてよく知っているだろうし、映画の好きな人も、映画についてよく知っているだろう。

昔読んだ本で、チョムスキーの本に書いてあったが(CHOMSKY READERだったと思う)、スポーツの人がスポーツについて語るとき、ものすごいよく知っていて、分析能力もあったりする。その知識レベルは、いわゆる知識人と言われている人たちの、レベルと、トピックは違うにせよ、そう変わらない、、、というようなことを言っていた。

内容はすでに誰でも持っているということのよい例だと思う。

でも、きっと「内容 対 発音」という二項対立があるときには、その内容は日本文化を説明できる力とかそういうことなのだろうか。スポーツとか、映画じゃなくて。

(そういえば、確かに、自国の文化、特に歴史に激しいほど詳しい外国人にたくさんあったことがある。そういう力を持つことは素晴らしいことだろう。ただし、その説明が本に書いてありました、、、ということだとちょっと困ると思うが。自分で生み出したほうがよいだろう。というのは、本に書いてある説明というのは、典型的すぎたりする。) 

内容 VS 発音(あるいはペラペラの会話力)は、実は、これまで英語が難しかったということで誕生した言い方だと思う。英語喉により、喉で音を真似し、3ビートを意識すれば、英語がそれほど難しくなくなるので、この言い方は薄れていくのではないかと思う。

役に立ちそうで、役にたたない「言いよう」ってのが結構ある。小論文の書き方に興味があり、ちょっと、勉強したりするが、たくさんの「言いよう」があるんだなあ、、、と、言説空間を眺めてみて感じる。

起承転結

ってのは、非常になやましい。思うに、よい小論文というのは、「よい」からこそ、起承転結に感じられるのであり、起承転結を意識して書くぞと望むから、よい小論文になるのではないような気がする。

ずれてしまったが、「学習」、「学ぶこと」の言説空間を、ちょっと客観的に眺めてみることが大切ではないかと思う。 ただし、客観的になるのは、ものすごく難しい。たいてい、学習者というのはその知識の分野がよく分からないから、学習中なわけだ。だから、その立場から、言説空間を眺めるのは殆ど不可能に近い。

とすると、残された手立ては自分がある程度分かっている分野に関しての言説空間を見るとよいのかもしれない。

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