結果を大切にするということ 基本ではなく

どんな知識の分野でも基本が大切だという論調が強い。いきすぎると、新しい考え方やメソッドが受け入れられなくなるということになる。そもそも基本という概念において、間違っている場合がある。 例えば、英語でスペルなど、基本だというかもしれないが、人類の歴史から見ると、スペルというのは、ずいぶん、最近になって現れたものだ。基本は、発音と聞き取りである(ちなみに、発音と聞き取りを分けて考えているのは日本人だけだ。例えば、アメリカでは、発音というジャンルも聞き取りというジャンルもなく、あるのは、例えば、「日本語」とか、「スペイン語」だけだ。その証拠に、アメリカの本屋や、ネット書店には、発音コーナーもないし、聞き取りコーナーもない。アマゾン書店のジャンルには、そういうジャンルがない。だから発音部門で一位という概念がない。) だから、人に、「あなたはもっと(基本)勉強してから出直してください」と言われたら、その分野には新しい考え方が浸透しにくいと考えるとよいだろう。それぞれの分野に、その分野の門番のような人がいる。 さて、ある曲を8チャンネルの録音機で録音してみたのだが、やってみて聞いていると、色んなことを考えた。その曲というのは、これだ。m4aはIーTUNEの形式だけど、普通のPCで再生できるのかな? www.estat.us/blog/ISHST.m4a (ここだけの公開にて失礼) 考えたのは、こういう曲を録音すると結果が出る。結果がでるから、ここをこうしたらいいとか、ああしたらいいとかいうことが分かりやすい。ここをしくじったから、こう直そうとか。 例えば、高校の授業などで、課題を曲を録音する、、、としたらどうだろう。すると、いろんな技能を駆使しないといけない。録音にしても、音にエコーをかけるかどうかとか、歌はどういう風にするかとか、後で聞いてみて、ここはこうしたほうがよいんじゃないか?とか。CDに入れて、ジャケットなんかもデザインするだろう。 そう考えると高校時代は、本当に恵まれた環境であった。まわりにヘビメタがたくさんいたし、竹原市に木原楽器という音楽店があり、その木原楽器さんが、「元気ライブ」と称して、高校生などに、音楽表現の機会を与えてくれていた。本当に感謝したい(http://www.kiharagakki.co.jp/freepage_20_1.htmlに写真があった!)。スタジオがあって、そこでものすごいレベルの高い高校生のバンドが練習していて、泡をふくほどであった。 逆に、学校では、基本、基本ということが多くないだろうか?部活でもそうかもしれない。  基本、基本ということばかり言っていると、日本の中学などでは、口を大きく開けてうたえぐらいで、とまってしまわないだろうか???? 10年ぐらい前から仕事として、アメリカの教育、それも教育改革を評価する仕事をしているのだが、アメリカには色んな教育の工夫があって、それを試して、そして結果がでたかどうかを評価する。 そういうのを今まで見てきていて、思ったのだが、日本の制度って、そういう変わった教育改革的授業をとりいれたりする余裕がゼロ???中学、高校レベルで、うちの学校では、国語を教えるのに、メソッドAを使います、、、なんて不可能のように思う。 10年ほどまえに、メキシコとの国境上あたりの高校にリサーチに言ったら、当時、最新鋭のマルチメディアの授業とかあって、メキシコ系の高校生たちが、グループになって、課題に取り組んでいた。課題というのは、番組をつくったりすることだ。 今日のタイトルにもあるが結果をだすということだ。 その当時、思ったのは、しかし、先生の指導がいきとどかないんじゃないか?ということだ。一人しかいないのだから。例えば、ある子が、もくもくと作業をしていたのだけど、それは、映画みたいなのを作っていた。そして、先生は軍隊をリタイアした人で、その先生いわく、「この子はもくもくとやっていて、たまに質問はあるけど、ほっておいても、よいものを作っているよ」と。 それを聞いて、私が思ったのは、当時だけど、「それは教育じゃないだろう」と。 しかし10年たってみて、やっぱり、その子が結果を出そうとすることで得たスキルなどが、現在のニーズにあっているだろうということだ。だって、アーティストで仕事を探すと、やはり、そういうマルチメディアのスキルがいる。イラストが描けるだけでなくて、それをアニメーションにしたりできないといけない。 結果を追求していると、それに必要な技術などが見えてきて、そしてそれをマスターしてしまうのだ。さらに、やっているうちに、問題を解決できる勘みたいなのがついてくる。 ちなみに、私が見た高校は、本当に貧しい地区にあったのだけど、恐ろしいようなほどの機材があった。なんでも、寄付だったみたいだ。 おそらく日本人論の人達によれば(例えば、国家の品格の藤原さん)、改革、改革というのは、おかしいと言うだろう。しかし、やはり、グローバルで求められるのは、問題解決能力だったりする。そして、それは実際に、結果を出しながら、育てていくものだと思う。 そもそも、日本人論者のかたがたは、もう永久就職ができている人ばかりだと思う。だから、言っていることがやや悠長だと思う。 先日、NHKを見ていたら、インド人の親が出てきて、東京に住んでいるのに、日本の教育では将来が危ぶまれるので、東京にいながらインドの教育を受けさせている、、、とのこと。 実際、先日のセンター試験をみたら、私の頭に浮かんだ最初の言葉は、「ふぁっくゆー」であった。正直いって。正直いって。だって、社会とか歴史のテスト。会話形式で、あたかも、教育的に豊かな感じの雰囲気だけど、会話形式にする理由は全くなく、些細な暗記テストだ。 現国もそうだ。ある箇所をさして、その意味を問うような形式だが、意味を問わなければいけないような文自体、悪文であり、教育の場にはふさわしくない。わざわざ試験をつくるための形式である。 こういうのを基本と呼ぶのだろうか?…

メタ言語、ノンバーバルコミュニケーション

ノンバーバルコミュニケーションという概念があって、言語で記号的に言う以上に、表情だとか、そういうのが大切だというアプローチだが、この概念も脱構築されるべきかもしれない。 言語学で生計をなしている人がいて、その人達の感覚で言うと、「言語を超えた部分」という表現になる。しかし、根本的には、言語が後に来るのではないかと思われるところがある。 例えば私の愛犬にとっては、不愉快感を示すと思われるRRRRという感じの音や、楽しい時に出す音などがまず根本的にある。そして、そのよりも上級のものとして、言語があるのだろう。犬だから喋れないが、一応、理解はする。 先日も、自動車のなかでLOOK OUTSIDEと言ったら、もそっと起き上がって、外を眺めてはじめた。英語喉をしていない日本人よりも英語の聞き取りができると思う。犬がいるぞ、と英語で言うと、きょろきょろ見回す。 さて、こんな話を始めたのは、とても大切なことを言うためだ。昨日、NYに住んでいる人に電話でアドバイスをしたのであるが、その人は、英語が結構いけているのだけど、私の言うことにレスポンスして、笑い声を出すときや、あ、なるほど、、ということを示すときに出す音になるたびに、口発音になってしまう。 例えば、最初の発話でうまく喉発音ができていても、ハハハと笑うと、日本人の笑いであり、口発音の笑いであるので、口発音に戻ってしまうのである。 時間がないのでずばり書くと、 日本人の社交辞令的な笑いは、単語である。日本語の単語だ。「ハハハ」は単語なのだ。だから、英語を喋っているときに、「ハハハ」と笑う瞬間に日本語の単語を言っているようなもの。だから、口発音モードに戻ってしまう。 一方で、ネイティブの笑い、および、文と文のサカイなどで言う表現は、単語というより、動物的な肉体な反応だ。犬の反応と同じだ。 言語化されていないものなので、ネイティブの笑いや、へえ!とか、オーとかいう驚きの表現などは、あれば、言語というより、動物的な、根本的な体の反応であり、ノンバーバルコミュニケーションに近いと言える。あえて言えば。 だから、喉発音をマスターしているにもかかわらず、文と文の間に発する反応の表現を、単語として発音していると、思わず、日本語的になり、口発音に戻ってしまう。 解決法。 笑ったりして反応するときも、ネイティブ的、動物的、にせよ。 さて、なぜこのことに気づいたかだが、また私が経験した、あの半日に及び嘔吐のおかげである。 あまりに長い間嘔吐をしていたので、別室で休んでいたのだが、ジーナは暇なので、映画を見出した。それがコメディーだったし、またそれが特に笑えるものだったそうだ。 隣の部屋から、ハハハハハハとときおりジーナの笑い声が聞こえてきたのだ。 ちょっと待てよ。日本人は青年期をすぎて、大人になると、ひとりでは笑わないぞ! 一人でワラうと、きみがわるいと思われてしまう。 しかし、私も小学生の低学年のころは、8時だよ、全員集合を見ながら、一人であっても、笑っていた。 しかし、いつのまにか、笑いは他者が近くにいる場合だけになっている。 つまり、日本人のハハハは単語になってしまうのではないだろうか?どうしても、押さえることのできない動物的、本能的な反応ではなくて。 よく考えると、アメリカの映画館に行くと、人が笑っている。げらげらと。しかし、日本ではあまり笑わない。映画館では。というのは、日本人のハハハは単語だからじゃないか?人の迷惑になるので、映画館では言葉は喋らない。だから、その延長線で、笑わないのではないだろうか?

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