日本の教育制度のパラダイムは

生徒
知識

というのがあって、生徒が知識を学習するというパラダイムだと思うんですが、そうじゃなくて

生徒
知識
生徒が人間としてすでにもっている適性

と言う風に3つ想定したほうが良いのではないかと思うのです。

数学という科目の場合は、適性がすでに自明的にじゃなくて、こっそりとすでにこれが機能しているように思います。

体育では当然でしょうか。

文系科目の場合は、機能していない気がする。

英語の場合、実は国内の言語文化にも色々あって、発声的には西日本の言語文化では外国語に近いので、それを生かせばよいのだけど、生かせておらず、暗記中心、字中心の学習になっています。

結果として教えているほうも英語を話せない、聞けないという状況が生まれています。

すでに生徒がもっているものをうまく生かせればよいと思います。例えば広島県人であれば、広島弁の発声を英語教育に生かせばうまく行くと思います。

時効だから言いますと、田舎に帰ったときに、地元の学校の先生に英語の発音を教えに行きました。すると10人ぐらいの先生の中で数人発音ができない人がいるんです。

まずは若い先生。発声が硬い。これは標準語の影響ではないかと思います。

一人の先生がどんなにがんばってもできませんでした。

理由は、その先生は英語が好きで、英語を勉強しているからのようでした。

英語を勉強するから英語が発音できなくなるんです。

口先がどうの、唇がどうの、音の強弱がどうのとこだわるとせっかく持っている広島弁の発声方法から遠のいていきます。

逆に、マジョリティーの英語に全く関係ない先生たち、体育の先生たちは、英語の発音がネイティブと全く違わないレベルまで言えるんです。

「きのお~か~ぷ、かったのお~」というときの、感じで英語を言うと、そのまんまネイティブ英語なんです。

で、言える人は聞きとりもできるんです。<--これが大切。

<経験上ですが、西日本には英語は喋れないけど、なんとなく聞けるという人が存在します。大阪の私立高校で働いているとき、数学のY先生が、そういう人で英語ができないのに、ネイティブの言っていることはなんとなく分かっていました(浜田しょうごのファンでした、、発声がああいう感じだった)。>

やっかいなのは、英語の発音ができない英語に熱心な人が、英語の勉強の仕方を発信するという状況です。

この状況は日本全体を覆っていると思います。

英語教育の鍵は、田舎もんで、教育レベルのあまり高くない人が英語ができるようになること。

そういう意味で東京大学出身の人で固められた文部科学省さんの英語教育グループに改革ができるかどうか不安になります。

長い教育年数のなかで体が硬くなり、発声も硬くなり、そもそも英語が聞き取れないと思います。

英語が聞き取れないと、「こんなに勉強しているのに、できないのは、語彙が足りないからだ、文法の勉強が足りないからだ」という方向に進んでしまうのです。

英語教育の方針に関しては、西日本の田舎ものの感覚を生かしてほしいと思いますが、ま、無理かな。

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