という記事がどこかにあったのだが、詳しく読むと、平均以上の人と、以下の人の数が一緒か、、、という問題に答えられない人が多かったということらしい。

http://blog.with2.net/link.php?709532:1932

答えはNOだけど、それは勘違いの範囲内じゃないだろうか。

思うに、そもそも平均という概念を勉強するときに、字として、記号として、勉強していると、そういう勘違いに陥るだろう。

じゃなくて、平均とかは、運動場で勉強したらどうだろう?数学の計算だって、運動場でやったらいいのじゃないかな。

1足す1は、1歩+1歩で今どこにいる?みたいな。

最初っから、X-Y軸を想定しても楽しいかもしれない。前に一歩、右に一歩、で、縦軸にマイナス5歩、、、今どこにいるでしょう?みたいな。

動きを持つもの、見えるもの、触れるものに還元して、学んでいくと分かりやすいのではないだろうか。

そして、それから抽出したもの、抽象的なルールをどうやって使えるか、、、これがぞくぞくするほど面白いだろう。

数学の公式をどうやったら、実際に使えるのかなど、エクセルでも使ってやったら、楽しいのじゃないか。使うさいは、結構どろくさい作業にも応用できたりして、、、

還元してと書いたけど、もともと、現象として、物理運動として、さわれるのとしてあったことを、抽象化して、記号で表していって、最後にたどりついたのが平均を出すアルゴリズムだ。

記号に書くのは、その記号が読めるのが賢いとか、えらいということではなくて、他の人に伝えないといけないという歴史的要請にこたえるために、記号をつかっているだけだろう。

これを勘違いしていはいけないと感じる。

たまたま学校教育という現場では、記号をつかって教えるならば、30人、40人いる生徒を相手に授業を成り立たせることができる(あるいは、なりたっているように見えるようにできる)。

しかし、記号のほうが本物だとおもってはいけない。本物は世界のほう、現実のほうで、記号は、便宜的に、学者の間、人の間でのコミュニケーションのためにある。

だから、最近では記号じゃなくて、YOUTUBEのほうが、分かりやすくなっている。

コーヒーぶっかけて、やられてしまったYOSHIBAのラップトップは、YOUTUBEで直し方を学んだ。記号の集合体であるマニュアルは読まなかった。

字で理解するというのは、本来人間にとって、不自然な行動なのではないだろうか。

英語の文法などが、圧倒的に字で解説されているが、激しく、不自然な方向に向かっていると思う。

例えば、先日、ある予備校の先生の動画をみたら、KNOWにはING形がないとされていた。

しかし、KNOWにING刑がないのは、理屈ではなくて、普通、そんな発想にならないから、どうせ、英語がネイティブじゃなくても、KNOWにINGをつける気がしないのだ。

簡単に言えば、英語は使っていたら覚えるというのが正しい。

日本人が文法にこだわるのは、単語と単語の間の構造的なかかわりが意味を決定するということを信じているからだ。

しかし、英語では、中国語ににていて、単語だけで意味が分かる。

例えばTHIS IS A PENだと、前後の意味が分からなくても、Aはひとつのということだ。

ISは前後を無視してもISという意味だ。

日本語ではちがう。

たとえば、

これはペンです。

といったときに、「は」だけとりあげてみたら、意味が分かりにくい。

日本語で、構造が大切だから、英語でも大切だという勘違いだと思う。

このことに気づいたのは、私が英語を日本語と同じか、それ以上のスピードで読めるということがきっかけだ。

英語は、単語を、ぱら、ぱら、ぱら、、、とつまみ読みするだけで、意味が分かる。構造など気にする必要がない。

中国語に似ていて、単語レベルで意味が分かったら、意味が分かる。

疑問文だったらどうかとか言うかもしれないが、新聞などを読んでいて、BE同士の位置を無視したから、意味が全然わからなくなったなんて経験はない。

読むことを鍛えたければ、英語をしゃべっていればいい。喋って使っているうちに、英語の勘がついてくる。英語ができるとわかるが、聞いて理解する英語も、読む英語も同じ英語だ。

 

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