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米国にある韓国系のスーパーにて思う

東海岸にはH-MARTという韓国系のスーパーがあります。日本の食材、食製品が豊富です。

なんとなく、韓国系のスーパーが日本人のために気を利かせて、日本の食材を置いてくれていると思っていました。

自分が行く時は、日本の食材しか買いません。買っているものをみると、日本語がパッケージに書いてあるものばかり買っているので、日本人であることが、すぐばれます。

ところが韓国の移民のかたがたは、日本の食材も普通に買われているような気がします。

最近気がついたのは、バージニアでは日本人が少ないこともあり、H-MARTのお客さんに日本人が来ているとしても、かなり少ないはず。

つまり、韓国系のスーパーは日本人のために、日本食を置いているわけでは全然なくて、韓国系の人は日本食も韓国系の食材も両方使うから、置いているということだと悟りました(知らんけど)。

これまで日本食しか買っていなかったんですけど、何かふっきれまして、韓国系の食材にも挑戦してみようかと思い出しました。

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なかなか難しい喉発音

これまでの経験上、喉の硬めのかたは、英語喉で発音が向上しても、「え、帰国子女?」と思わせる感じのレベルの一方の前で止まる感じになるのだが、この最後の最後の障壁について語りたい。 私はこれまで以下のような表現をしてきた。 首の根元を立体的に使っていない感じ。 あるいは、TやDなどのときに、舌に力がはいって、舌のほうで音が鳴っている感じ。 この二つは、同時に起こるように思う。 さて、このことは、だいたいだが、元々の方言と関係していて、大阪弁あたりから、この問題が出てくるように感じる。正確には大阪は喉発音半分、口発音半分と言う感じで、絶対とは言いきれない。 さらに、大阪から東に行くにしたがって、音程が大切であるように感じる。 例えば電話番号で、123-45-6789というのがあったとすると、英語では、だんだん、音程が落ちている。音程が大切でないので、息の量が肺のなかに少なくなると、なんとなく、落ちていくのだ。 そして、広島でも、123-45-6789という電話番号を読むとすると、だんだん音程が落ちていく。 大阪弁、そしてそれより東の日本語では、なんとなく、音程が途中からでも上下するのではないか? もちろん、これは仮説であるので、違っていたら教えてくださいね。 上のことは、綿密に関連しているのではないかと感じる。 音声を常にコントロールするのが大阪弁、そして東の言語。そして、そのためには、常に喉を緊張しておかねばならない。 一方で広島弁、九州弁などは、英語と同じで、だら~んと、息が出るのにあわせて音程が、だら~~んとさがっていく。音程にあんまりこだわりがない。さらに、意味的にも、音程はそれほど重要ではない。 私が今目指しているのは、こういう状態にある人たちでも、「え、帰国子女?」というレベルの英語に引き上げる、、ということ。

週末セミナーで学んだことの報告

昨日、土曜日は、お一人のかたに喉を教授した。セミナーの最初にテレビを見てもらったら、聞き取れないということでした。2時間後に見てもらったら、「はい、聞き取れます」とおっしゃって、実際に、口に出してシャドーイングできておられた。 最近、楽勝です。この2ヶ月ぐらい思い出したように、教えていたのです。最初のころは、発音は確実にネイティブレベルまで行くけど、1)聞き取りは、う~ん?という人が少しだけ存在した、2)なんとなく、信じ切れていない感じでお帰りになる人もいたかもしれない、、、? でも、最近、2時間で聞き取りがOKになるのが普通のように思う、、、というか楽勝に思えるようになった。ネイティブ発音になるのは、楽勝というより、当たり前になった。 不思議なこと。前は、PHDを持っている人は、口発音が抜けにくいと思っていた。DC付近には、高学歴のかたが多い。だから、あれ?私の中学時代の友人とかで英語知らなくても喉発音は楽に出来るのに、なぜ?と思っていた。 しかし、ここに来てPHDだろうが、PHDじゃなかろうが、聞き取りの向上率(および発音)が、当たり前のように2時間で成功するようになった。 その秘密は、私が皆さんとコメントを交換したり、あるいは皆さんが書いていることを読ませてもらったり、あるいは、実践者のかたが音声UPされているのを発見して、私が勝手に音声指導と称して、コメントしているあいだに、いくつかのことが明らかになったこと。 何回も書いたけど、特に効くと思うこと 日本語は早く、英語は遅い言語だということを、洗脳するぐらいのいきおいで理解してもらうこと。体で感じてもらうこと。手拍子を使って。昨日は、丸めた紙をボールのように投げながら、英語を喋ってもらった。MY NAME IZ という感じで言うときに、シラブルごとに紙の塊の空中に投げてもらう。日本語では無理。ヒラガナに合わせて、これをするのは無理。 さらに昨日は、会場(アパートのラウンジ)のソファーから、テレビのところに行くまでの間に(テレビを見てもらって聞き取りができることを確認してもらう)、私が、自分の歩くステップに合わせて、英語を喋ってみせてみた。 ここまでこの方法に固執している理由は、以前、一人のかたが、セミナーの後で、「まだシラブルの意味が分からない」と、メッセージをくれたこと。また、お一人、「う~ん、まだよくわからないけど、修行ですね」とメッセージをくれたのが、逆に悔しいと思ったこと。 以前、ずっと以前、XXさんの掲示板を見ていたとき(5年ぐらい前)、そこでの交わされているコミュニケーションは私には異常事態だった。学習者「これはどうやったらよいでしょうか?」、XXさん、あるいは先生的な立場の参加者さん、「こうこうこうしたらいいでしょう。」、学習者、「分かりました、やってみます。何事も修行ですね。」  思うに日本の「先生」たちは、生徒が修行というか、自習というか、頑張ることで、喜びを得ている。結果じゃなくて。私も高校教師のとき、その授業で分からせるというより、家で勉強させる、やる気をつけさせる、やらせる、ということが教育の目標だという感じの文化があったと思う。だから、私自身、授業に行ったとき、その授業の寸前に、生徒が、他の先生の授業の予習をやっていると、ちょっと腹がたった(笑)。といっても、彼らは、人のノート、訳を写しているだけだったと思うが。教師として、生徒が子分のように、自分のクラスのために、授業外で何かをやっている、、、というのが、なんとなく教師の楽しみ、、、という感じの文化があったと思う。 生徒が、その授業のとき、授業の瞬間、先生が説明した瞬間にできる、分かる、とかじゃなくてね。 そういえば、そうでしょ。日本の授業。先生が教える。分からん。問題集を見る。分からん。今度は参考書を見る。分からん、、、塾に行く、、、 って感じです。なんか、教師の目標が生徒に勉強の習慣をつけさせること、、、ってことになっている。でも、それって、生徒が40人ぐらいいて、もう教育活動が成り立たないという現実があり、もう授業なんてやっても無理だから、生徒のせいにするってことですよね。すると家が勉強の場所になる。すると、その家の親の考えだとか、収入レベルが(塾に行かせることができるので)、教育結果に返ってきませんかね。 もう一つ、とても効くと思うことがある。それは、英語にはッや伸ばす音がないんですよ、、、ということを指摘すること。それも、受講者さんが、そも間違いを犯したときに指摘する。そして、音が首の根元で継続しているのが英語だと指摘する。 <特に、Rのときに、首の下あたりをごろごろと鳴らすのを忘れる人が多いが、これは、音を伸ばして、Rを発音したと思っているということにある。つまり頭では分かっていても、音を伸ばすだけでRを発音したと思ってしまうということだ。これを指摘している。RがあればRの情報を相手に与えないといけない。これこそが基本の基本だ。音声学者がイギリス人はRを発音しないと宣伝しているが、あれは、イギリス人のRが日本人が聞くと、日本語の伸ばす音に聞こえると言うだけの話で、イギリス人はイギリス人なりにRを発音している。前にNURSEと言っても通じないとおっしゃったかたがいたが、ナーと伸ばすだけでRにならないのが原因だ。> これを知った上で英語を聞くと、やはり首の根元で継続している音に耳を傾けると思うんです。 さて、昨日は1人だったんですが、お陰で、ゆったり、まったりと、国産ネイティブ生産を楽しみました。でも3人ぐらいが一番かも。というのは、受講者さんが、他の人の英語を聞いて、学ぶというのがあるんです。例えば、BOOKっての、どうしてもブックっていってしまうけど、2,3回言っていると正しい音がでる。他の人が不成功していて、成功した瞬間が聞けるのって、面白いしためになる。 今回、声が大きくする方法、これいけるかもと思ったことがある。それは、日本人は周りに人がいると声が小さくなる。だけど、人がいても、大きな声を出してもいいだということを実感すること。 で、一回、大きな声で声を出してみるんです。人がいても。一回、2回やると、ふっきれる。今回実は、これは瞬間的に思った方法なので、ちょっといい加減にしか、指導しなかったので、来週は(3人)もっと、ちゃんと押してみる。 プールに入るとき寒いですよね。でもザボーンと浸かってしまうと、な~んだ水がぬるいじゃんとなる。 それと同じ。周りに人がいても、一回、大きな声を出してしまうと、なれる。 1992年、1993年、と私は京都の出町柳に住みながら、京橋の高校で教えていたので、京阪電車に乗っていた。夜の京阪電車の特急は、サラリーマン戦士達が疲れて寝ているので、シーンとしている。あるとき、アメリカ人の横に座ったので、喋りだしたのだが、シーンとしているのに、彼は、車両一杯に響くような声で話しはじめて、私はちょっとびっくりした。 まさに、おいおい、空気読め、、、という感じだったが、車両には、大きなネイティブ声と、私の中間ぐらいの音量の声(遠慮がち)が響いていた。英語で。…

2週間ほど休暇します & 英語喉第2期の感想

2週間ほど、ブログおよび英語喉活動を休憩します。この月曜日から、バケーションに行くからです。そのあいだ、皆さん、よろしく。なにがよろしくかというと、ぜひ日本のまだ英語喉を知らない人に英語喉のことをぜひ教えてあげてください。その間、以下の場所で情報交換などいかがでしょう? 英語喉つながり http://jbbs.livedoor.jp/study/11006/ 名前の由来は、去年、三羽氏から年賀状をいただき、「喉つながり」が面白いと書いてあったことです。何かのイベントでNKJMさんに会われたということでした。英語喉の歴史を書いていますが、機関銃英語出版以降は、おそらく第2期だと思います。 1期のかたがたは、英語喉で衝撃な喉革命を経験されたかたがたです。第2期で、もっとも特徴的な人物は英語喉革命さんだと思います。機関銃英語の本をちょこっと読んでCDをまだ聞いていないのに、聞き取りが上達されたというかたです。 http://blog.livedoor.jp/nodorevolution/ その他にも、たくさんのかたがたが第2期において喉デビューされました。微妙に、どなかが第1期で、第2期なのかわかりにくいので、また整理したいです。KATSUさんが、最近とても興味ぶかい仮説をモデル化されていたので読んでおいてくださいね(ここをクリック)。 第2期の時代になると、第1期の最初のころにあった、非常に細かい質問が出なくなったのが興味ぶかいです。最初のころは、同じゲップエリアの音をどう区別するのか?という質問がありましたが、最近は、ネット上などで、喉の報告をされている人が増えているので、あ、やればできるんだなということが分かりやすくなってきました。そういう意味で、自転車に乗れるようになるのに似ている状態になってきた。できている人がいるんだから、今は難しくてもできるようになるだろうということです。 第2期のかたがたのBLOGを読んでいて分かるのだけど、お互い知らないし赤の他人なのだけど、なにか影響しあえていて楽しいです。しかし100年後に、この私達の言説の塊が発見されたときに、そのあたりの関係も一緒に理解してほしいところです。 私の今年の成長は2ヶ月ほど教えまくったことに起こりました。一つめは、シラブル・3ビートの説明がうまくなったので、2時間で聞き取りができるようにできる絶対的な自信がついたこと。 最後のほうで、ネイティブのご主人と一緒にセミナーをさせてもらったとき、特に、そのかたが声に感情が入りにくいと言う点に気づき、そのあたりから、喉にて感情を表現できるんだ、、、それが大切なんだということにも気づきました。そのことで、私自身、 1)前よりもアメリカ人にとって近づきやすい人になった。話をしていても、相手が話が長くなる。 2)アメリカ人の気持ちがよく分かる。前は命令文だと、腹が立つときがあったけど、今は喉声にこめられた人類の根本的な感情が読み取れる。 ただし、困るのは、日本語のドラマがまともに見れないこと。うるさく感じる。せっかく、坂本竜馬のやつを見ていても、うるさい。日本人の声は、硬すぎて、感情がいれにくく、感情を入れるとすると、音量をあげるが、どなるか、、、の二つしかないように思える。 これは、ぜひ皆さん、LETTERS FROM IWOJIMAを見ることで理解してください。アメリカ人と日本人の戦場での「どなりかた」が違う。 しかし、歴史性の高いDC付近に住んでいる私には悩みがある。それは太平洋戦争で死んでいった日本人の兵隊が、テレビや映画などで、いつも、突然、おーーーーという感じの怒鳴り声でアメリカ兵の前に登場し、機関銃で殺されるシーンばかりがでること。 私は、同じ固い体を持つ人間として、そのときの気持ちが分かるような気がする。もう、どうにもならない、、、、とせっぱつまったとき、人間として最も感情が高まるとき、、、そんなときでさえ、我々日本人男子は、大きな声でどなることしか残されていない、、、 我々は生まれて日本語をマスターする段階で、すでに哺乳類としての何か自然なものを失ってしまったのではないか、、と思う。特に、男性。そして、日本語というのは、非常に、人の間の支配関係を意識することなしには喋れない言語だ。だから、自由にものがいえない。 本当に言えるときは、それは、もうだめだ、せっぱつまって、お~~~と切れるときだけ。 皆さんはそんな経験ないですか?怒るときも、つまり感情を表すときも、何か形にもとづいてしか怒れないような感覚。 例えば韓国で誰かが死んだと言うニュースがあると、親たちが、ものすごい勢いで泣き崩れている。しかし、日本で同じことが起こると、何か、もうあきらめた感じで言葉にならない感じ。 一つ、理解できそうで、いまいちできないことがある。それは例えばだが、この2週間、休暇をとるのだけど、ジーナは、楽しそうにしている。しかし、私は、なぜか、それを感情に表し、たのしいな、うれしいな、という感じにならない。 これがなぜか分からないけど、いつも体が硬いことに関係しているような気がする。うれしさ、楽しさは体の芯から感じるもの。でも、喉を閉めた感じにしていると、それがなにか顔などに現れにくい。 ためしに、アメリカのコメディーを見るときに、ぼけーとして、喉をゆるめにしてみていると、笑ってしまう。おもわず。でも日本人にふと戻り、口を閉じたまま鼻だけで息をして、喉が閉じた感じで見ていると、顔が笑わない。 10年ほど前、アメリカの高校にリサーチに行った。たまたま文化祭のようなことをしていたのだが、本当に感心したのは、生徒達が舞台で何かすると、ものすごい盛り上がりが観衆(=生徒)に起こる。 なんなんだろう。あの感情をストレートに表してくる人達。…

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