国産ネイティブ
喉の旅 そして教育社会学 ハビタス理論

KENJI Nさんが、去年の10月の段階でネイティブレベルに達していたので紹介します。KENJIさん、遅れましたが、音声コメントしました。国産ネイティブと言ってよいです。 http://eigonodo.seesaa.net/article/166900451.html www.estat.us/blog/kenji10_23_2010.mp3 (音声によるコメントです。) さて、昔に、あれ?とか思ったことで、納得がいかなかったことが結構思い出に残っている。それらのことが英語喉で説明できたように思えてすっきりすることがある。 中学3年のときに広島市のYMCAに普段から塾通いするかどうかということで、悩んだ結果、しようと思い、お金を払った後で、やっぱり広島市は遠すぎる(当時は電車で1時間半ぐらいはかかった)と思い、受付のお姉さんに説明するとき、言葉がすっと出てこなかった。自分は広島弁しか喋らないのに、その場が、もっとフォーマルは喋り方(今、思えば、超口発音と超2ビート)を要求していることは空気で分かったが、なかなか出てこなかった。で、広島弁の普通の喋り方で、説明してお金を返してもらった。 大学の1年生で英文科の受付に言って、何か説明しようとしたとき、言葉がしどろもどろで困った。さくっと、名詞句が出てこなかった。例えばだが、 授業登録の件ですが、 といえばよいところを、授業をとるのにせんにゃあいけんことがあるじゃろう、、というような長めの広島弁、それも中国語的なる発音(今思えば、、、)は浮かぶのだが、ちゃんとした漢語的な表現が出てこなかった。 その二つのイベントをよく覚えている。何十年も前のことだ。結局、高校生までは広島弁で、口発音でもゆるめの発音、そして3ビートとはいかなくとも、英語や中国語のシラブル構造に似た喋り方をしていたのだろう。 そう考えると、社会学的なテーマにぶつかる。教育社会学は、たいてい、生徒の社会階級がその生徒の成績やら進学パターンに影響を与えるとして、色々な仮説をデータを集めて検証する分野だ。ふつう、社会階級レベルの高い家の子供は、文化的に「高級」な資本を持ち、それが、たまたま学校で使われる言語や、好まれる振る舞いに一致する、、、というようなメカニズムを想定している。フランスの社会学者の(故)Pierre Bourdieuさんが有名だ。 口発音VS喉発音で考えたときに、普通地方出身者、広島人、沖縄人は、中国語的シラブルで日本語を喋り、そして、ゆるめの口発音でしゃべっている、、、と思われる。 すると、このことが、我々が人生で遭遇する機会の良し、悪しに関係するのであろうか? 例えば、口発音に早めに移行できる児童ほど、先生のお気に入り度が増し、勉強で成功する度合いが高くなるとか? 思うに、まずは、地方の違いを知りたい。私が考えているように、関東地方の人は、本当に、口発音度が高いのだろうか?あるいは、標準語だけなのだろうか?硬い発音をするのは。 あるいは、地方出身者でありながら、標準語的な言葉で関東地方で子供を育てた場合、その子供はスーパー口発音になるのだろうか?例えば、私が喋る標準語的な言葉は、人口的であるがゆえに、東京の人が喋る日本語よりも、カチカチしている可能性がある(そうでも、ないけど、まあ理論的にはありえる話)。人口的であるからだ。その子息は、その人工的な日本語を聞いて育つので、ますまず口発音度が高くなるのだろうか??? もう一つ、大学時代に聞いた話で、まだ解決がつかないエピソードがある。当時、京大に行っていた友人がおり(作家の高野ごろーじゃないよ)、その人が、「高校時代は、授業をきっちりやっていたら、受験勉強ってしなくてよかった」と言ったのだ。 え~~~~。私は必死こいて私立大学受験をしたので、信じられなかった。 もしかして、その人は、スーパー口発音で、学校文化になじみやすく、勉強が得意になったとか、、、てありえるかな、、、。授業を聞いていても眠くならないとか。 Pierre Bourdieu氏は、ハビタスという概念を打ち出しているのだけど、口発音ハビタスとかありえる? でもだ、、、私は、もしかしたら小学校のときに、ちょっと喉発音ぽかったのかもしれない。というのは担任の先生が、上川の声はよく通る、、、と言っていたからだ。友人が、「上川の母さん、口、あんまりうごかさずにしゃべるのお」と言っていたことを思い出すが、もしかしたら、私も口にあまり頼っていなかったのかもしれない。 これは他の人からも聞いたのだけど、声が良いと学級委員とかに選ばれてしまう。だから、口発音が学校で優遇されると決定論的にはいえないのかもしれない。私も、学級委員を小学校ではよくしたし、また児童委員長みたいなのもやった。 あれ、しかし、それは小学校のときだけだ。中学、高校と、全然、選ばれなかった。もしかして、喉発音的な発音法が受けるのは、自由度の高い小学校だけで、暗記中心的なる教育体制のある中学、高校となると喉発音が通用しなくなるのだろうか? 中学で、生徒会に立候補したけど、全然、当選しなかったのだ。あわれ。

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芸能関係への英語喉の応用
英語喉50のメソッド 増刷 7刷目 +里奈先生の面白い動画 要チェックです

三修社さんのサイトに書いてありますが、http://www.sanshusha.co.jp/np/info.do 英語喉、増刷ということです。これで7刷めになります。これは、英語喉の実践者が増えているということでうれしいです。皆さん、応援ありがとうございます。 ゆっくりですが、英語が本当にできる集団が大きくなりつつあると思います。この集団をどんどん大きくしていき、健全なる言説、実践を伸ばしていきましょう。英語ができる、できるから、教えられる、英語教育について語れる、、、と。 先日、出会った若者が、聞き取りがかなり(80%ぐらい?)できるようになったけど、100%に持っていくにはどうやったらいいですか、、、と質問を受けました。こういう質問でも答えられるコミュニティーに育っていくと思います。というのは、皆さんのなかに80%から100%に引き上げることに成功されたかたがいるのではないでしょうか? さて、ハローボイスの里奈先生のBLOGにとても面白い動画が載っていました。要チェックです。なにやら、コーラスグループの皆さんにハローボイスを使ってもらい、その使用後の瞬間の声の艶が急激に増している様子が、とらえられているんです。 http://linax.seesaa.net/article/181711939.html 使用前の声の艶度と使用後の艶度を比べてください。で、私のように英語喉をやって長いと、声を聞いただけで、あ、喉がちょっと硬い感じとか分かるんです。私自身の歌を聞いても、わかります。あ、硬くなってるぞとか。 で、グループの皆さんの艶度がまだまだあがる余地があるのが私には分かりますし、たぶん、皆さん自身で聞いてもわかるのではないかな。それが楽しくて、楽しくてたまらんわけです。 艶度をあげていくと、声が管楽器の声みたいになっていくと思います。 DCでジーナとセリーン・ディオンのコンサートに行ったんですけど、観衆が、彼女が歌っているあいだ、しーんとしていて、彼女の管楽器のような声をうっとりしている様子、今でも思い出します。 あんな声だせたら素敵ですよね。 皆さんのなかにも、きっと声の才能のあるかたがいると思います。ただ喉が閉じていてそれに気づいていないだけかも。 自分の声を見つけませんか(里奈先生の表現です)?

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教育実践・言説の脱構築
結果を大切にするということ 基本ではなく

どんな知識の分野でも基本が大切だという論調が強い。いきすぎると、新しい考え方やメソッドが受け入れられなくなるということになる。そもそも基本という概念において、間違っている場合がある。 例えば、英語でスペルなど、基本だというかもしれないが、人類の歴史から見ると、スペルというのは、ずいぶん、最近になって現れたものだ。基本は、発音と聞き取りである(ちなみに、発音と聞き取りを分けて考えているのは日本人だけだ。例えば、アメリカでは、発音というジャンルも聞き取りというジャンルもなく、あるのは、例えば、「日本語」とか、「スペイン語」だけだ。その証拠に、アメリカの本屋や、ネット書店には、発音コーナーもないし、聞き取りコーナーもない。アマゾン書店のジャンルには、そういうジャンルがない。だから発音部門で一位という概念がない。) だから、人に、「あなたはもっと(基本)勉強してから出直してください」と言われたら、その分野には新しい考え方が浸透しにくいと考えるとよいだろう。それぞれの分野に、その分野の門番のような人がいる。 さて、ある曲を8チャンネルの録音機で録音してみたのだが、やってみて聞いていると、色んなことを考えた。その曲というのは、これだ。m4aはIーTUNEの形式だけど、普通のPCで再生できるのかな? www.estat.us/blog/ISHST.m4a (ここだけの公開にて失礼) 考えたのは、こういう曲を録音すると結果が出る。結果がでるから、ここをこうしたらいいとか、ああしたらいいとかいうことが分かりやすい。ここをしくじったから、こう直そうとか。 例えば、高校の授業などで、課題を曲を録音する、、、としたらどうだろう。すると、いろんな技能を駆使しないといけない。録音にしても、音にエコーをかけるかどうかとか、歌はどういう風にするかとか、後で聞いてみて、ここはこうしたほうがよいんじゃないか?とか。CDに入れて、ジャケットなんかもデザインするだろう。 そう考えると高校時代は、本当に恵まれた環境であった。まわりにヘビメタがたくさんいたし、竹原市に木原楽器という音楽店があり、その木原楽器さんが、「元気ライブ」と称して、高校生などに、音楽表現の機会を与えてくれていた。本当に感謝したい(http://www.kiharagakki.co.jp/freepage_20_1.htmlに写真があった!)。スタジオがあって、そこでものすごいレベルの高い高校生のバンドが練習していて、泡をふくほどであった。 逆に、学校では、基本、基本ということが多くないだろうか?部活でもそうかもしれない。  基本、基本ということばかり言っていると、日本の中学などでは、口を大きく開けてうたえぐらいで、とまってしまわないだろうか???? 10年ぐらい前から仕事として、アメリカの教育、それも教育改革を評価する仕事をしているのだが、アメリカには色んな教育の工夫があって、それを試して、そして結果がでたかどうかを評価する。 そういうのを今まで見てきていて、思ったのだが、日本の制度って、そういう変わった教育改革的授業をとりいれたりする余裕がゼロ???中学、高校レベルで、うちの学校では、国語を教えるのに、メソッドAを使います、、、なんて不可能のように思う。 10年ほどまえに、メキシコとの国境上あたりの高校にリサーチに言ったら、当時、最新鋭のマルチメディアの授業とかあって、メキシコ系の高校生たちが、グループになって、課題に取り組んでいた。課題というのは、番組をつくったりすることだ。 今日のタイトルにもあるが結果をだすということだ。 その当時、思ったのは、しかし、先生の指導がいきとどかないんじゃないか?ということだ。一人しかいないのだから。例えば、ある子が、もくもくと作業をしていたのだけど、それは、映画みたいなのを作っていた。そして、先生は軍隊をリタイアした人で、その先生いわく、「この子はもくもくとやっていて、たまに質問はあるけど、ほっておいても、よいものを作っているよ」と。 それを聞いて、私が思ったのは、当時だけど、「それは教育じゃないだろう」と。 しかし10年たってみて、やっぱり、その子が結果を出そうとすることで得たスキルなどが、現在のニーズにあっているだろうということだ。だって、アーティストで仕事を探すと、やはり、そういうマルチメディアのスキルがいる。イラストが描けるだけでなくて、それをアニメーションにしたりできないといけない。 結果を追求していると、それに必要な技術などが見えてきて、そしてそれをマスターしてしまうのだ。さらに、やっているうちに、問題を解決できる勘みたいなのがついてくる。 ちなみに、私が見た高校は、本当に貧しい地区にあったのだけど、恐ろしいようなほどの機材があった。なんでも、寄付だったみたいだ。 おそらく日本人論の人達によれば(例えば、国家の品格の藤原さん)、改革、改革というのは、おかしいと言うだろう。しかし、やはり、グローバルで求められるのは、問題解決能力だったりする。そして、それは実際に、結果を出しながら、育てていくものだと思う。 そもそも、日本人論者のかたがたは、もう永久就職ができている人ばかりだと思う。だから、言っていることがやや悠長だと思う。 先日、NHKを見ていたら、インド人の親が出てきて、東京に住んでいるのに、日本の教育では将来が危ぶまれるので、東京にいながらインドの教育を受けさせている、、、とのこと。 実際、先日のセンター試験をみたら、私の頭に浮かんだ最初の言葉は、「ふぁっくゆー」であった。正直いって。正直いって。だって、社会とか歴史のテスト。会話形式で、あたかも、教育的に豊かな感じの雰囲気だけど、会話形式にする理由は全くなく、些細な暗記テストだ。 現国もそうだ。ある箇所をさして、その意味を問うような形式だが、意味を問わなければいけないような文自体、悪文であり、教育の場にはふさわしくない。わざわざ試験をつくるための形式である。 こういうのを基本と呼ぶのだろうか? 私は、こういう基本は頭を悪くするのではないかと思う。木をみて森が見れなくなるのではないかと感じる。このことを実験などで検証するべきだと思う。 結果を大切にする方向が良いのではないだろうか?

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