日本語でのキャラと英語でのキャラが同じに感じられて充実感

昨日は、友人の誕生会で、デュポンサークルというDCのまんなかにある繁華街に行ってきました。しかし、東京などの繁華街を想像してはいけません。もっと人が少ない。DCでサークルと名がつくと、それは、いくつかの道路が交差していて、その真ん中が丸い感じのスペースになっていて、そこを自動車がぐるぐる回れるようになっているのです(イギリスではラウンドアバウトとかいって、これが非常に普通だったと思う)。 英語喉を始めてアメリカ人の誕生会に招かれるようになったのは脅威です。来月も一人あるので行って来ます。 しかし、英語喉をしているから、ものすごく親しくなった、、、という言い方よりも、普通の人になったという言い方のほうが正しいと思う。日本でも同じだが、コンパなどに誘うとき、誰でもかまわず誘うというときがあると思う。 日本人はアメリカに住んで、積極的でないと、内容のある話をしないと、アメリカ人と溶け込めないと思い込んでいる。先日も、そんなことを言っているひとがいた。引用させてもらうと、 引用はじめ (ワシントンDC掲示板より) 発音がネイティブでなくても。平等に接するアメリカ人たくさんいますよ。 私がこの20年以上で気がついたことで、会話に必要なのは度胸、協調性、ユーモア、あと話が尽きないことです。 ネイティブでもつまらない会話、協調性のない人は相手にされません。 もともと「平等に扱いだす」って差別ですよ。 差別するネイティブのアメリカ人とはお付き合いしたくないですね。 普通に接しているアメリカ人は、心では「このアジア人め」と思っているかもしれません。 発音・発声音が人間関係を深める鍵ではないです。 引用終わり 私が言っていることの全く逆である。 しかし、実際は、どうだろう。日本で考えてほしい。その個人に「内容」があるから友達があるだろうか?度胸がないと友達ができないだろうか???? いや、結構、たまたま学校で席が近かったとか、下宿が同じだったとか、クラブが同じだったという単純な理由で、仲間にならないだろうか?もちろん、性格などもあるが、人格が破壊しているなどということでなければ、普通は仲間に入れてもらえるのだ。 それと同じだ。英語喉で喉発音をしていると、回りのアメリカ人が色々と誘ってくる。それは、パーティーなどの内容によっては、とにかく人数が集まると誕生会などもリあがるし、一緒に働いているのに誘わないのは、みずくさいとアメリカ人だって思うからである。 飲みに行こうよ~、とか、もう帰るのかよ~、まだ早いんじゃね~か~、、、という発想だって、もちろんある。 そして、社交しているうちに、友達感覚になってくるのだ。 昨晩は7人だったのだが、当然、喉発音でのりきれた。特に良かったのは、ついに私自身の日本語のときのキャラと英語のキャラが同じになったと思えた点だ。以前は、日本語だとどちらかというと社交的だと思うのだが、英語だとシャイと思われてしまう、そしてシャイみたいに振舞ってしまう点に矛盾を覚えた。 隣に座った人は初めてあった人なのだが、ちょっと私がア~と息・音をもらすだけで、上りと新幹線と下りの新幹線が駅ですれ違うときのようなかんじで、パ~~~ンと私のほうを向いていた。そのレストランはうるさかったのに、それだけで相手がこちらを向くとは~。 さらに、こういう場では、失敗をおそれず、面白いかな、面白くないかな?という感じで、面白げな話をするわけだが、一人が、その話をするときに、私のほうを主に私のほうを見ながら喋っていたので、口発音時代は、こんなことはありえなかったなあと感無量だった。「カズなら笑ってくれる」という信頼感ができたのかもしれない。 また俺を会話の中心にしようというようなことも人が言ったのだが、これも感無量である。日本はどうだったか?とか、カズは英語を教えているだよね、、、どうよ?みたいな。 日本語の会話では当たり前の進行だが、英語でこれが起こっているのは、それは俺が喉発音で普通の人になったからだろう。 しかし、やはり英語が100%聞けているということは強いだろう。しかし、そこにはギリシャの人もいたのだけど、彼女だって100%聞こえていて、談笑に加わっている。喉発音と3ビートでやっていると、誰でもできるのである。 たまたま一人だけ、ちょっと遠い存在的な男性がいたのだが、それは、彼を知っている人が一人だけだったからだ。彼はどちらかというとその知っている人だけと喋っていて、ま、おおげさにいえば、ぽつーんとしていたのだが、私はそれを見て、な~るほど、俺は口発音時代は、いつもポツーンマンだったなあと思い出したのである。これは大げさに表現しただけだ。彼はたまたま知っている人が多くいなかったということ、彼だけが、違う産業に従事しているということという特殊な事情があったので(他のメンバーはなんらかの形で同じ会社に勤めていたことがあったりした)、私がここでポツ~ンマンと呼びつけるのはアンフェアなのだが、ま、話の勢いということで。 しかし、私がこのテーブルでポツ~ンマンにならず、会話の中心になることさえできたのは、それは、メンバーが女性が多かったというのもあるかもしれない(7人中、男は私を含め2人であった)。女性が多かったのは、バースデーの主人公が女性だったからだろう。 喉発音になって、観察力が強くなって気づくのは、女性というのは、結構、気をよく使う人たちなのである。男性以上に社会関係に気を使うように思える。だから、私が何か言おうとすると、すぐに丁寧に聞いてくれる感じがする。 これは文部科学省でさえそう思っていると思うが、英語ができる日本人像として、ディベートができるとか、議論できるとか、そういうことが前面に出る。それは、日本人の西洋人像は、論理的、白と黒をはっきりさせる、はっきりものを言うなどだ。…

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