May 2010

日本人が森を見て木を見るのが困難な理由 シラブルの認識が難しい

英語で大切なのは、音自体を正確にまねることでは実はない。 だから、いろんな外国人がノンネイティブとして英語を喋っているけど通じるのだ。だって、ネイティブだって色んななまりがあるぐらいだ。 大切なのは、シラブルである。ちなみにシラブルとは日本語で音節である。英語喉以後、音節を語る人が増えているが、ただ英語喉をミロと書くだけで良いと思うのだが、、、。それが書いてないと、ちょっと悲しいなあ。無視状態?? とにかく、日本人はシラブルの重要性になぜ気がつかないか?なぜ英語にも、日本語のヒラガナのような意味的に最小単位の音があることを気がつかないのか? それは、ヒラガナとか漢字のせいである。 そもそも、普通の日本人は、たとえは「カ」という音が一つだと思っている。実際は、KA(つまりKとA)だから、「カ」は2音だ。 ヨーロッパ人にとっては、あまりに当たり前だ。そもそも、KとAを使うことでも二つの音だと分かる。 ヒラガナになれている日本人は、子音+母音でカとかマとかハが成り立っていることが分からない。 さらに、子音と母音の間が、口発音であるために、間隔が狭いので、二つの音がつながっていることがわかりにくいのだ。 だから英語にもシラブルがあるんだよ、、、といわれても分かりにくい。 日本語のMA(マ)が二つの音からなることさえ意識していないのに、TEN-NISという単語は、は子音ー母音ー子音の塊が二つあるんですよ、、、といわれても分からないだろう。 でも、本当に分からないのかなあ、、、、(分からないというより、信じられないということじゃないだろうか?) 日本人にとって受け入れにくいもう一つの点は、ヨーロッパ言語では基本的に、スペルが非常にいいかげんで、実際の音との乖離が激しいという点だ。とりあえず表記しておこうという感じなのだ。 日本語は、だいたい書いたとおりに読む言語である。完全にとはいわないが、だいたい90%ぐらいは、書いたとおりに読むだろう。 だから、日本人は、英語のスペルも音をある程度は正確に表しているだろうと思っていると思う。 だから、JAPANが、実は、JAP-PANで、Pは半分づつ読んでくれといっても、受け入れがたいのだろう。 だって、これまでずっと試験制度をささえてきた英語という科目が、根本的に、英語喉によって変わってしまうかもしれないのである。 うけいれがたいはずだ。

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喉発音は裏声と言う感じがする(高い声ということでなくて、違う意味で)。

裏声という言葉があるが、日本語では高い声を言う。が、英語喉の喉発音は、舌よりも後ろのほう、そこから首の根元までを使って(つまり裏の部分?)発音するのだが、まさしく「裏声」と読んだほうがいいような印象を持つことがある。 スペイン語のソープオペラをジムで走りながら見ていたが、やはりアメリカ人と全く同じ声を出している。当たり前だが。 なんというか、首の根元からでていて、全然、切られていない音。 根本的に聞きどころが違うのである。日本語は、口のなかで音が最高潮に達する部分だけを聞いている感じだ。英語では、首の根元から流れ出てくるつながりの音を聞いている感じである。 言葉で、なんと表しがたい現象であろうか! 歌を聴いているとあまりにも明らかな気がしてならない。特に、誰がどうだとかいうことじゃないのだが、私はSUGARLANDという人を聞いていて、なんてきれいな流れだろうと思った。 http://www.youtube.com/watch?v=8H5kGvKJZZk (もし見れなかったらユーチューブでSUGARLAND のKEEP YOUで探してみてください)

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音声学学と音声学学学

「音声学」は音声を科学する学問である。言語学は言語を科学する学問である。社会学は社会を科学する学問である。ところが、日本においては学が一つ増えてしまっていると思う。 音声学学  言語学学 社会学学 という具合だ。 例えば、社会学というのは、本来、社会に起こる現象を理解しようとする学問なはずなのだが、多くの人が、社会学者、それも外人の社会学者の本を読み、、まとめる、、という作業をしていて、その営み自体が社会学となっている。社会学を学ぶ学問だから、社会学学だ。社会学学は大学の先生がするわけだから、それをさらに読んで勉強することは社会学学学で、学が一つ増える。つまり、 音声学学学 言語学学学 社会学学学 これは冗談ではない。私自身、大学のとき、文学理論を勉強しようと思って、色々読もうとしたが、英語のは難しいので、柄谷行人氏の本を読んで理解しようとしたことがあるが(といっても、それでも理解が難しい)、、これはまさに文学学学学学であった。 アメリカでは、ファンディング(お金)を持って来れない分野はつぶれてしまうので、政策科学としての生き残りをかけて、経済学とか社会学とかが、社会問題を直接研究している。だから、本当に社会学は社会学だし、経済学は経済学だ。学学とか学学学ではない。 これは格好をつけていっているわけではなく、アメリカと日本を比べて、アメリカが良いといっているわけではない。アメリカのほうが、リアリティーがあり、悠長に学学学とやっていると、飯が食えないということだ。(査読つきの)論文を書いて出版しないと、権威もないし、分野に貢献できず、社会政策にも貢献できず、おいてけぼりになると、本当に存在意義がなくなってしまう。 そういう意味で、アメリカの社会科学や認知科学は厳しい(格好をつけて言っているわけではない)。大学での就職なども、結構、ポジションがない。CHRONICLEというアカデミア専用新聞?みたいなのがあって、そこの求人サーチエンジンで、「言語学」の大学での就職先を探すと、米国国内でたったの1大学だけである。社会学もたったの8箇所だった。経済学だと政策科学に近いのでもっと多い。教育学も裾野が広いということもあるけど、政策科学と密着してきているので、30箇所ほどあった。それでも少ないと思う。どう考えても大学院生はたくさんいるので。 さて、 学学あるいは学学学は文字を媒体とした学問だから、現象をダイナミックにとらえることができない。誰かがこういった、ああいったということに縛られすぎていて、実際のデータを見ることがない。 とらわれすぎる一つの理由は、限られた英語力でもって、英語の文献をものすごい時間をかけて精読するわけだから、がんばって読んだから、書いてあることが本当だと思ってしまうことではないだろうか。しかし、それらの文献に権威があるとされているのも、日本人がものすごい勢いでありがたがるからではないだろうか。 <私自身、大学時代に、英語でフーコー、ガタリ、アルチュセールとかわけのわからんのを読んでいたが、分からないからこそ価値があるように思えた。> 学学や学学学を単なる学に戻す必要があると思う。そのためには、実際のデータを見ることが大切だと思う。つまり本当の英語を聞き、本当の英語を喋ってみることが大切だと思う。 最近は、英語喉のあとには、YOUTUBEなどで本物のを英語を楽しんでいる人がいる。これは本当に正しい方向だ。ネイティブの友人などをつくるとかも正しい方向である。 あまり難しいことを考える必要もない。

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