ダイアモンドはダイミンド?

この間、セミナーのときに、参加者のかたから質問があって意識に上ったことだが、DIAMONDの発音はダイアモンドではなくて、ダイミンドだ。 正確に書くと、D_-AI-M/M-i_-ND_である。実際、喉でそう言ってみると、やはりネイティブと同じ発音じゃないか、こりゃと納得が来る。辞書を見たら、ダイアというぐあいにアが入る発音も載っているが、アメリカではやはりダイミンドだそうだ。 辞書を眺めて、DIAのページに似たような単語がないかなあと思ってみていたらDIAPERも同じだ。ダイアパーではなくてダイパーだ。D_-AI-P/P-E_r_- だそうだ。これも辞書の両方載っているのだが、アメリカではダイパーである。 そういうような単語がうじゃうじゃとある。テレビを見ていて、よく気づく。ありゃ、これは間違って覚えていたわい、と。NEGATIVEという単語が頭に飛び込んできたのだが、どう聞いても、ネガじゃなくて、ネギに聞こえた。共著者に確認するとやはりN-E-G/G-i_-T/d-i_-v だと教えてくれた。いや、もう教えてもらえなくても、自分でそう聞こえるから、不思議だというより、当たり前だ。 PROJECTという単語がある。会議のときに、ある人が声が小さかったのだが、ちゃんと聞こえるように喋りますという意味で、PROJECTしますと言った。声をPROJECTするという感じなのだが、発音が普通の名詞のPROJECTと違った。 動詞のPROJECTと名詞のPROJECT。確かにちょっと聞くとアクセントの位置の違いと聞こえるかもしれないが、私には確実に発音の違いに聞こえた。 動詞のPROJECTはPr_-u_-J/J-E-KTに聞こえる(喉をやっていない人は、JECTを強く読むと教えられている)。 名詞のPROJECTはPr_-A-J/J-E-KTに聞こえる(喉をやっていない人はPROを強く読むと教えられている)。 実際、喉発音で、喉発音記号のとおり発音してみると、アクセントの位置が勝手に正しくなる、、、とういか、アクセントについてはなんにも考えなくてもよい。Pr_-u_-J/J-E-KT(名詞)のJECTにアクセントがあるように思えるのは、Pr_-u_-Jの最初のほうが、首の根元のゲップエリア発音で、そこが低い感じに聞こえるからだ。 喉をやっていると、言語の発音がいかに単純かがわかる。 日本語だって、誰かがワサビといえば、それはワサビなのだ。教科書音声学が一生懸命になって、日本語も非常に複雑な形で変化します、、と言いたいみたいで、ンが現れる場所によって、変化するとか言っているが、そうでもない。やはりンはどこに現れても大体同じだ(大げさにいうから違うだけ)。 英語だって同じだ。なんの魔法でもない。単に、英語喉に載せた音があり、それをシラブルごとにつなげるだけ。実際、毎日、英語を聞いていて、そう思う。それが複雑に聞こえるとしたら、それは喉をまだ実践していないから、聞こえないのだろう。 日本語も英語も単純な体系から成り立っている。じゃないと喋れないよね。人間が。もっとすごいのは、あれだけ難しいと思い込んでいたフランス語などでも、言うほど難しくないということが喉をやっていれば分かる点だろう。鼻にかかった言語だと思い込んで聞くと、ものすごい繊細な言語に聞こえる。ところが、喉から出てるんだと知って、首の根元からでている音を、逃さずに聞くと、イタリア語とそうかわらんじゃんか、と思えてくる。 大学の後輩で英語の教師がおり、喉をやってくれと誘ったら、OKが出た。で学校を通じて買ってくれた。ところが、忙しく、しばらく試せないらしい。その他の大学の英語の教師の大学時代のクラスメートも同じだ。忙しいようだ。2年間ぐらい連続で忙しいらしい。これでは、なかなか学校からは、特に英語を専門としている人達からは広まるのが難しいのかなあと思った。 ブログの人気投票です。 http://blog.with2.net/link.php?709532    

ケンダマには効くかもしれないが

NHKを見ていたら、私の地元からそれほど離れていない小学校で、ケンダマを教育の過程にとりいれているということを紹介していた。 ケンダマで、集中力をやしなう、、、と。それから先輩が後輩を指導したりするわけだから、物事を説明したりする力も養うことができる、、、と。それはそれで面白いことだと思う。コミュニティーとしての学校をつくることができるだろう。 ところが問題は、そういうアプローチはケンダマだからできるのであって、それを他の分野に当てはめることには無理があるということだ、、、と私は思う。学校を出て、経済システムの中に取り込まれていき、そのなかでケンダマに培った集中力というのが生きるかどうかは全くの未知数である。また頑張ればできる、、、というのは、それはケンダマだからである。例えば、競争率の高い試験など、運も大切だ。金で買うコネや(教員試験など)、行った大学が大切だということも加わるのだから、頑張ればよいということではない。 私の勘だが、ケンダマが教育の世界で受けるとすると、それは、教師と生徒の比率が結構多くても、ケンダマだと、管理するのが可能だからではなかろうか?そもそも(1)できているかどうかが、ぱっと分かる、、、というか見れる、(2)そもそも、もともとセンスがある生徒がいるので、その生徒が他の生徒を指導できる、(3)頑張ればできるんだということを教えやすい。 数多くある教育実践の中で、管理可能なものは取り入れられやすいのではなかろうか。管理できないもの、例えば、エッセイを書いて批評しあったりする、何かを企画してそれをやってみる、、というようなことは教育実践に取り入れられにくいのではなかろうか。 もちろん熱心な先生、家に帰らないことが可能な先生がたまたまいれば、そういう手間のかかる実践が可能だろうが、そうなると、教育機会というものが、その「たまたま」に依存することになる。 体を皆で動かすとか、ケンダマをするとかいうのは、人数が多くても比較的管理がしやすい。視覚化できるからだ。目で見えるのである(知る人ぞ知る、ミシェルフーコーのパノプチコン、、、を思い出す人もいるだろう。それは正しい)。 そういう方向ばかりに教育実践が向いてしまうのは、困るのだが、そういう教育実践を科学的に評価し、本当に効くのか?教育的に好ましい結果が出るのかを、実験によって確認することが大切だと思う。そういう意味で日本の社会科学、行動科学系が評価研究という分野をもっと開拓すべきだろう(今、仕事でそういう仕事をしている。WWCという企画だ)。 さて、評価研究においては、好ましい結果を知りたいわけでから、何が好ましいのか、、、というのを知ることも大切だろうが、これは、非常にオープンマインドで考えていくべきだろう。どうしても、机について、頑張る、、、という方向ばかりに進んでしまいがちだ。(実際に経済システムのなかで仕事を始めると、いかに机で学んだことが役に立たないかは身にしみるものだが)。 もちろん日本という国家として考えて、どうしてもこれはしないとだめだというのがある。例えば漢字を覚えるとか、伝統的な歌を覚えるとか、国家の文学とされているものは目を通し、議論でき、説明できるようにするとか。ただし、大人がやっても役に立つようなことを推進すべきだろう。自分はやらんが、子供には押し付けるというのは、意味がわからん。 ** 「頑張る」ということが、我々の歴史の中でいつ始まったのか?数々の教育実践が、頑張る、、、ということを目標にしている。しすぎじゃないか? その「頑張る」ということの歴史性を知ることが急務だと思われる。またしてもミシェルフーコーの歴史研究を思い起こされたかたがいるかもしれないが、ずばりである。 ワシントンDCに住んでいると、どうしてもそういうことを考えてしまいがちになるが、いつかこのことをまとめてお話したい、、、というか議論したい。 ブログの人気投票です。 http://blog.with2.net/link.php?709532    

「不満に思わないでね?」みたいなフォロー

今日は、非常に大切なプレゼンテーションをしたんだが、まあ結構うまくいったので、よかった。ただし、リラックス口、喉発音が持続しなかったのかな、、、最後のところで、誰かが批判的な(建設的なね)コメントを言ってくれているときに、人が、「不満に思わないでね?」みたいなフォローをしたのだが(ありゃ、カズが批判を受けて、不満に思っていると思ったのかな)、これって私の息づかいがちょっとコントロールできなかったかな?と思った。 ちょっと気を許すと怒っている?とか思われる息づかい、口の閉じ方になってしまうので、気をつけるぞ! ちょっと誰かが冗談を言っていると、「冗談ですよ、まじにとらないで」と言われたりする、、、といいつつも、最近は結構そういうことがなくなっている。そういえば。逆に、冗談で返したりできている。今日のプレゼンは少しだけ緊張する場面があった。でもその原因は、そのスライドのところが練習不足だったからかもしれない。 ちなみに、大学のとき、メキシコでホームステイをしたのが、ことあるたびに、「怒っているのか?」と聞かれたのだ。帰国後それをネタに英語のスピーチを書いて大会に出たら、全日本大会で優勝してしまった。アメリカへの往復チケットをもらったことを覚えている。 スピーチのタイトルはARE YOU ANGRY?だった。1988年ぐらいのJUEL杯だった。 ただし、そのときはまさか、口の結び方、息の仕方、音のCHOPPYさが、怒っている、硬いというイメージをメキシコ人に与えてたとは夢にも思わなかった。 スピーチの展開上、メキシコ人の家族との交流のなかで、そういう困難を乗り越えたということになったのだが、結局は、根本的なレベルでは乗り越えてなかったのだなあ。喉大陸発見までは。 根本的ってどういうことでしょう。つまり、特定の個人とは、仲がよくなったので、怒っていると思われなくなった。でも、そうでない一般の外国人と会うと1から始めないといけないということだ。これが根本的という意味だ。 なんでメキシコ?アメリカでそういうスピーチが生まれなかったのは、結局、アメリカのコミュニティーとの接触があまりなかったからだろう。透明人間と化すのである。アメリカに短期で留学しても、日本人同士でつるむというのが普通だ。アメリカ留学後に、えらく国家主義的な思想にそまることがあるが、それはやはりそういうことだろう。透明人間を1年もやるなら、誰だっていやになる。その国が。 メキシコでは透明人間になる余地がなかった。メキシコ人家庭に世話になったが、人が来る来る。昼に、近所の親戚がきて、ランチをとる。週末にも人があつまる。常にスペイン語を喋る状態にあった。そのために、え、なんでカズが怒っているの?という疑問が沸いたようだ。1987年のことだった。 誕生日もやってもらった。ちょうど同じ日が誕生日の人が3人集まって。そのときの、ホストファーザーとマザーは亡くなってしまった。マザーのほうは、家族旅行でイタリアに行き、帰ってきたあと倒れてしまった。ファーザーもなくなった。このあいだ、ホストシスターと喋ったときは、ホストマザーが亡くなる前にも私のことをよく懐かしく話していたということを聞いた。スペイン語ができなかったとき、食中毒になり、夜中に私がマザーに、「ワカラ、ワカラ」と訴えたことが、マザーの思い出だったらしい。ワカラというのは、げろーーーっとかおえーーーって意味で、メキシコ人がいやな食べ物に関して使う表現だ。食中毒で、まさにそういう状況だったので、その表現をサバイバル的に私は使ったのだろう。 ファーザーが医者だったので、強力な薬で治したが、1週間は苦しんだ。関係ないが、部屋のクロゼットに本物の骸骨があったのだが、ありゃなんじゃったんだろう。メキシコでは骸骨がなんか文化的に意味を持つと聞いたことがある。 ブログの人気投票です。 http://blog.with2.net/link.php?709532