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剣道の試合を見て思うこと

剣道の上級者の試合を見ることができるサイトがある。全日本剣道連盟のものだ。 http://www.kendo.or.jp/picture/movie.html ここにあるビデオクリップを見ていて、色々と考えることがあった。剣道の普段で練習で大切とされていることが、上級者の試合においては、見られない点が面白いと思った。 まず、上級者、それも、ものすごい強いレベルでは、剣士が声を出していない。逆に、小学、中学、高校レベルの剣道の練習および試合では声をだすことは普通である。声がでていないと、審査員が、途中で試合をとめて注意をするぐらいだ。たまに、ちゃんと面が入っていても声が出ていなかったという理由で無効になることがあるくらいだ。ビデオの試合を見ていると、面を入れた瞬間でさえ声を出していないように思える(これは確認がしにうくいので断言できない)。 結局のところいえるのは、声を出すというのは、学生の剣道だけなのだろうか。思うに声を出すというのは、先輩と後輩の権力関係を日常レベルで生産、再生産するための、一つの装置であると感じる。声をだせよー、と激を飛ばすのは、きまって先輩だったり先生だったりする。声をださないから、負けたんだ、、、というようなことも、いうし、またバレーなどの試合でもそういう言い方をしたりするぐらいだ。 アメリカの大学院で、驚いたことがあった。その大学院には付属高校があったのだが、テニスをする高校生が、全然、練習中に声をだしていなかったことに驚いた。私が中学のときは、テニス部は声をだして練習していた。でもよく考えると、声を出していた本当の理由は、敷地がせまかったために、全員が全員、練習できない。だから、だらーんとしているわけにはいけないから、下級生が声を出すことで、真剣にやってますよ、、、ということを示すのが目的だったと思う。 小学校の時に野球部をやっていたのだが、レギュラーから外れてしまった。今思えば、たった12人のチームだったから、補欠は3人だ。練習に参加させてもらえそうなものだが、補欠の3人は、補欠として球拾いを1年間しなければならなかった。そのとき、声を出せと監督に言われたのだが、声を出すことと球拾いが仕事となった。補欠とはいえ、皆と一緒に練習させてもらえるだろう、、、と甘い期待を持っていたし、またうまくなれば試合に出れると無意識のうちに思っていた、、、が、そのレギュラーメンバーの発表で全てが終わっていたことは、若すぎて、知るよちもなかった(小学6年)。 大人となりやっぱりどう考えてみても補欠が3人なら、打撃の練習をさせてもらったり守備の練習をさせてもらったりしてもよいようなものだが、いつも球拾いのみだけだった。もともと私の小学校では、あいさつ運動というのがあって、声をだしてとにかくあいさつを、、、というのがあったから、野球部で声をだす、、というのも普通と思った。それ以上に不思議なのは、なぜクラブをやめなかったか、、、である。「一度始めたら最後まで」とか「初心を忘れるな」というイデオロギーに染まっていたからだと思う。冬でも裸足で外で縄跳びを、、、というのがあって、私はそれを達成し、一冬を越した。始めたからにはやめなかった。 いつから私たちは声を出し始めたのだろうか。昭和の初期だろうか?大正?明治?それとも、昔から声を出していたのだろうか? とにかく声をだして英語を読む、、、というアプローチがあるが、そのあたりも関係があるように思えてならない。日本語を声を出して、皆で読むというようなものもある。 音楽の時間にも声を出すように言われたが、これは納得がいく。声をしっかりださないと歌にならない。ただ一つ、非常に不思議なことがあった。声をしっかり出していると思うのに、先生が口を大きく開けなさい、、、と言っていたことだ。大人になって思えば、口の大きさは、よっぽどでないかぎり音量に関係しないような気がする。歌手を見ていると、口をそんなにいつも大きく開けているわけではない。口の開け方はどちらかというと感情によって左右されているように思える。 小学校で演劇をしたのだが、せりふをいうときに、自分としては、おおきな声をだしていたのだが、指導の先生に、「口を大きくあけろ」と、クラスメート全員の前でこっぴどくしかられたことを強く覚えている。口を大きく開けるというのは、音量の問題ではないのだろう。私はがんばって、元気に指導に従っています、、、というのを視覚的情報として、伝えないといけなかったのだと思う。 あと色々あるのだが、剣道のビデオクリップに話を戻したい。ものすごくショックだったのは、剣道が、お互いをいかにだまして勝つか、、、ということがポイントのようだったことだ。だます、、、というと言葉が悪いが、ストレートな面で勝っているように見えて、画像をよく見てみると、面を打つ前に、あたかもこてを狙っているかのようにみせておいて、相手をごまかして、そして面を打つ、、、と。 そういうテクニックは、練習ではやらなかった。めーん、こてー、、、とストレートに打つ練習ばかりをしていたから、試合でもほとんどそうしていた。 あと、足の速さ、そして踏み込める距離を一生懸命鍛えようとしていたんだけど(少なくとも2メートルぐらいは、ストライドしたい、、、というかんじ)、上級者の試合を見ていると、足はちょっとしか動いていない。相手が打ってくる、自分も打っていく、、、この二つの行動が同時に起こるのだから、そんなに遠くまで足をもっていく必要がないのだ。 ところが練習のときは、面がものすごい遠くに感じられた。 もし、私が今、剣道を始めるとすると、まずは、上級者の試合のビデオを観察し、上級者が何を一体しているのか、どのように相手をとまどわせているか、、、などをしっかり観察することから始めたいと思う。 思うに、練習のときにやる練習は、あれは、「練習を可能とするための練習」だったのではないかとおもう。練習自体を目的とした練習である。 英語発音でも、とにかく練習が目的となってしまうことがあるが、「できるようになること」を目的としたいものだ。

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自分自身の身体を理解する

英語喉にとりくむことは自分自身の身体を理解することである。しかし、従来の考え方というか、感覚では、練習とは何事も、自分の体を何かの実践に合わせていく、慣らしていく、、、というかんじの考え方があった。これを変えなければいかんと思う。例えば、従来だと、なんとなくだが、繰り返すうちに、体を慣らすという考え方がある。 そういう要素もあるかもしれないが、まずは、自分自身の体・喉を理解することが先決だ。一旦、理解すると、自分の身体に関して色々なことがわかってくる。 その一つが姿勢である。 私は猫背っぽいのだが、これも直すことができた。直したというより、あることに気付いたということである。 英語喉に書いてある西洋人の標準姿勢を実践するならば、猫背のメカニズムが分かる。猫背は、背中が曲がっているのではない。あるいは、何かが曲がっていて、それが永久に固まってしまっているのではないのだ。 実践してもらうと分かることなので、この点は皆さんに考えてもらいたい。ヒントをいうならば、、、、猫背は背中の問題ではないのだ。

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放屁(ヒールッペ)と英語喉がどう関係しているのか

放屁というと、「屁をひる」ということだ(「ひる」は広島弁、、、標準語においても「へっぴりごし」という表現の中で生きている。)。イメージが汚いので、フランス語で表現することにする。「ヒールッペ」である。私が勝手に作ったフランス語だが、フランス語風に、ゲップエリアで全て発音してほしい。ヒはフランス語では非常に弱いので、イーという感じに聞こえる。ルは、喉を震わせて発音する。あえていえば、ぺにアクセントを置いたような感じになる。 フランス語でクレープを発音するときの、かわいい感じ、、、そういう感じで発音してほしい。 なぜヒールッペを語るのか。それは、人間が作りだす第2の音声活動であるからだ。音声学者でさえ、このテーマは扱っていない。音声であるにもかかわらず。 発音に関しては、日本語 VS 西洋言語において、口 VS 喉という対決がある。ところが、ヒールッペに関しては、それがないのである。ヒールッペに関しては、文明社会に生きる全人類が肛門発音である。腸発音ではなくて。 なぜだろうか。 文明社会に生きる我々はヒールッペをすることを「失礼」と捕らえるのである。生まれたときから、そう教えられるので、部屋に誰もいなくても、ヒールッペを恥と捕らえてしまうため、ヒールッペの瞬間、緊張してしまうのだ。日本語を発音するときに、短い音を出すために喉や口が緊張してしまうのと同じ原理である。 ところが、動物はどうだろう。例えば犬の社会には、ヒールッペが失礼だ、恥だという概念が存在しない。したがって、人間独特の緊張感がないため、腸発音になるのだ。腸はゆるやかな音を出すことができる。リラックスしているからである。いわゆる「すかしヒールッペ」に非常に近い。仮説になるが、動物のヒールッペはほとんどがすかしである。恥だ、、、という感覚がないから、そうなるのではないだろうか。 英語喉をマスターすることは、自分自身の身体を理解することである。むやみやたらに練習することではない。自分の体の原理を知ることだ。 英語喉をマスターできた人は、自分の喉、体をマスターできた人だ。自分自身の体を真の意味でコントロールすることに成功したのである。イメージ的には、昔、ヤッターマンという漫画があったが、それにボスロボットというキャラクターが存在した(と思う)。ボスロボットは、頭のところにコックピットがあって、そこに、悪役たちが座り、ボスロボットを操縦するのだ。 そういうイメージだ。自分で自分の体を操るのである。意識していなかったことを意識するのである。 昔に書いたことの繰り返しになるが、、、 なぜ喉発音が難しいのか?それは、日本語のくせで、音を出す=喉を緊張させる、、、という方程式を思わず使ってしまうからだ。この方程式をいじってしまおう。喉を緊張させなくても、大きな声は出せるのだ。喉をゆったりさせて、音のライフサイクルを大切にしながら(音の最初と最後を切らないこと)、発声するのだ。そのときに戦うのは喉ブレーキだ。思わず、喉にブレーキをかけてしまっているはずだ。それに気づくことが大切だ。 このことを実践できていなければ、いくら音を繰り返してもだめだ。どうしても、実感できなければ、少し本から離れて、風呂に入ってみてほしい。風呂に入り、ゆったりした状態で、声を出してみよう。声優さんのような声がでないだろうか?え、これって私の声?みたいな瞬間があったら、それが本物の英語喉である。 ヒールッペについて最後に一言。文明社会に生きる我々はもはやヒールッペをもっとも原始的な、動物的なフォームにおいて実践することができない。犬がやっている腸発音をまねしようとしても、どうしても意識してしまい(恥の概念が体をのっとってしまう)、すかしヒールッペでさえ、近似値的なものになってしまう。 できるとするならば、それこそが、自分自身の体を本当の意味でマスターしたということになるであろう。 文明が我々の身体をコントロールしているのである。そのことに気づくこと、、、これは非常に難しい。  

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