Skip to toolbar

珍説 日本人にとって日本語は第2外国語?

自分自身は、大学に入ったときから、英語は使うこと、話すことでマスターしてきたのだけど、なんとなく、多くの人が、大人になっても、字に基づいた勉強をされているように感じます。

ふと思いました。日本人には、方言があって、国語・標準語・日本語がありますが、後者の日本語は、外国語のように、勉強して身に着けたといえるのではないでしょうか?私自身、小学校に行って、初めて、公式の日本語を読み、勉強しました。標準語のような喋り方を学んだのは、10代の後半になってです。つまり、「日本語」の発音を18歳ぐらいで学んだわけです。

つまり、母国と思っている日本語をまるで、第2外国語のように勉強して、今日にいたるわけです。その体験は、外国語の学び方に大きく影響を与えているのではないでしょうか?

本来は言語は最初に音があり、音だけであやつるのが基本で、書き言葉はおまけのようなものです。ところが、書き言葉を学んでから、会話を学ぶという順序が、当たり前のようになっています。多くの人にとって、音を出す、発音は、最後の仕上げという感覚があります。

この感覚はもしかしたら、日本語自体が日本人にとって、学校で学ぶ第2外国語であることに関係していて、国語の勉強の仕方をイメージをそのまま、英語の勉強にあてはめているのではないかな~。

Related Articles

英語喉で無血革命を!

RYOGONさんのブログに書いてあって、え?これ本当?信じられない。日本人はなぜ怒っていないの?と思うことがあり、今でも信じられない。それはこのニュース。え?もうずいぶん前のニュース? パナソニック(Panasonic)も、来年度の新卒採用の8割を外国人とすると発表した。 ぐぐってみると、もうずいぶん前に発表されたことらしい。 いくつかのことが頭を浮かぶ。正直、色々と悔しい。まずは言いたいこと。 松下幸之助氏が墓場で泣いているだろう。私達、80年代後半に大学教育を受けたのですが、松下幸之助が、どんな経済が悪いときでも、従業員を家族のように大切にする、、、とか、そういうことを聞きながら、それは日本だと信じてやってきたわけですが、もうそういうのはナシ? 第2に思ったこと。私を含める日本人が大ばか者扱いされているということ。 「新卒採用の8割を外国人」 という表現を聞いて99,999999%の日本人が問わない事実がある。それは、「新卒」というのは日本の制度だ。外国人が応募してきて、「あなたは2年前に大学を卒業しているので、応募できません」などと日本の企業が言うはずがない。 だから、「新卒採用の8割を外国人」という表現自体が、日本人を馬鹿にしている。日本人には、この表現でOK。奴らは信じるからね。英語ができないから、どんなに外国に出ても、日本に住んでいるようなもの。外国人の応募はもちろん、今年卒業したとか、3年前に卒業したとかは問わないけど、まあ、日本人には、新卒だけといっておけば、納得するからね。本当にコントロールしやすいよ。3年生ぐらいから就職活動するみたいだけど、やめろとはいえないしねえ。本当にかわいそうだけど、僕は僕がよかったらよいのだから、他人のことはかまっていられないよ、、、って感じかな? 第3に思ったこと。大学卒業者を対象とする仕事というのは、エントリーレベルの仕事なので、非常に、専門性が低い。誰でもできる仕事だ。なのに、それを外国人に、、、というのは、そういうふりをしているだけじゃないか?単に、専門性の高い外国人に仕事をということだけではないのか? 新卒の8割を、、、と日本人が聞くと、あたかも 20%は新卒の日本人 80%は新卒の外国人 ととるかもしれない。でも真相は、 20%は新卒の日本人 80%は専門性の高い外国人 ということではないだろうか?さらに、よく読むと、20%はかならず日本人に行くということではない。だから、真相は、 100%は専門性の高い外国人ということじゃない???? じゃあ、エントリーレベルの仕事はどうなるの?となるが、それは派遣社員さんに頼みますということではないか? 実際、私自身、日本の大学に行っているけど、少なくとも文系の教育はスキルレベルが非常に低い、、、というか教育自体がないといってよい。 宿題もないし、レポートの1年に1回か2回。さらに、試験は暗記科目的で、解答用紙は返ってこない。レポートは返ってこない。返ってきてもコメントはない、、、というのが普通だろう。 学部を変えるのが難しいので、自分の興味によって教育プログラムをたてにくい。例えば文系にしてしまうとコンピュータプルグラミングとかできないまま卒業ですよね?今でも?ちなみに、英文科だと、どうしても教職をとりたいが、それだけでもう4年間でとる授業がだいたい決定されてしまう。方向転換が難しい。時代の流れについていけない。 やはり、これは個人レベルで自分自身に投資をするしかない。しかしそのさいに、だまされてはいけない。こんな人材が欲しいとか、そういう他人の話はおいておいて、自分で何が必要が考える。 その考える際に、参考になるのが、大学時代などに、自分で事業を起こすことをイメージし、そうするなら、何が必要だろうかと考えることだと思う。あくまでもイメージにとどめておくほうがよい。というのは、事業を起こすのは大変だからだ。しかし、考えるヒントになる。 英語は英語喉ではやくマスターしてほしい。…

放屁(ヒールッペ)と英語喉がどう関係しているのか

放屁というと、「屁をひる」ということだ(「ひる」は広島弁、、、標準語においても「へっぴりごし」という表現の中で生きている。)。イメージが汚いので、フランス語で表現することにする。「ヒールッペ」である。私が勝手に作ったフランス語だが、フランス語風に、ゲップエリアで全て発音してほしい。ヒはフランス語では非常に弱いので、イーという感じに聞こえる。ルは、喉を震わせて発音する。あえていえば、ぺにアクセントを置いたような感じになる。 フランス語でクレープを発音するときの、かわいい感じ、、、そういう感じで発音してほしい。 なぜヒールッペを語るのか。それは、人間が作りだす第2の音声活動であるからだ。音声学者でさえ、このテーマは扱っていない。音声であるにもかかわらず。 発音に関しては、日本語 VS 西洋言語において、口 VS 喉という対決がある。ところが、ヒールッペに関しては、それがないのである。ヒールッペに関しては、文明社会に生きる全人類が肛門発音である。腸発音ではなくて。 なぜだろうか。 文明社会に生きる我々はヒールッペをすることを「失礼」と捕らえるのである。生まれたときから、そう教えられるので、部屋に誰もいなくても、ヒールッペを恥と捕らえてしまうため、ヒールッペの瞬間、緊張してしまうのだ。日本語を発音するときに、短い音を出すために喉や口が緊張してしまうのと同じ原理である。 ところが、動物はどうだろう。例えば犬の社会には、ヒールッペが失礼だ、恥だという概念が存在しない。したがって、人間独特の緊張感がないため、腸発音になるのだ。腸はゆるやかな音を出すことができる。リラックスしているからである。いわゆる「すかしヒールッペ」に非常に近い。仮説になるが、動物のヒールッペはほとんどがすかしである。恥だ、、、という感覚がないから、そうなるのではないだろうか。 英語喉をマスターすることは、自分自身の身体を理解することである。むやみやたらに練習することではない。自分の体の原理を知ることだ。 英語喉をマスターできた人は、自分の喉、体をマスターできた人だ。自分自身の体を真の意味でコントロールすることに成功したのである。イメージ的には、昔、ヤッターマンという漫画があったが、それにボスロボットというキャラクターが存在した(と思う)。ボスロボットは、頭のところにコックピットがあって、そこに、悪役たちが座り、ボスロボットを操縦するのだ。 そういうイメージだ。自分で自分の体を操るのである。意識していなかったことを意識するのである。 昔に書いたことの繰り返しになるが、、、 なぜ喉発音が難しいのか?それは、日本語のくせで、音を出す=喉を緊張させる、、、という方程式を思わず使ってしまうからだ。この方程式をいじってしまおう。喉を緊張させなくても、大きな声は出せるのだ。喉をゆったりさせて、音のライフサイクルを大切にしながら(音の最初と最後を切らないこと)、発声するのだ。そのときに戦うのは喉ブレーキだ。思わず、喉にブレーキをかけてしまっているはずだ。それに気づくことが大切だ。 このことを実践できていなければ、いくら音を繰り返してもだめだ。どうしても、実感できなければ、少し本から離れて、風呂に入ってみてほしい。風呂に入り、ゆったりした状態で、声を出してみよう。声優さんのような声がでないだろうか?え、これって私の声?みたいな瞬間があったら、それが本物の英語喉である。 ヒールッペについて最後に一言。文明社会に生きる我々はもはやヒールッペをもっとも原始的な、動物的なフォームにおいて実践することができない。犬がやっている腸発音をまねしようとしても、どうしても意識してしまい(恥の概念が体をのっとってしまう)、すかしヒールッペでさえ、近似値的なものになってしまう。 できるとするならば、それこそが、自分自身の体を本当の意味でマスターしたということになるであろう。 文明が我々の身体をコントロールしているのである。そのことに気づくこと、、、これは非常に難しい。  

Steven Platzer氏の衝撃

大学では本当に意義がわからんことばかりだったのだが、カリフォルニアの大学で交換留学をしたときに、Steven Platzer大先生の日本史の授業をとったことで、初めて*分かる*という経験をした。 第1次湾岸戦争が起こっていたから1991年のことだ。 この先生は、日本の教育思想史の本の訳者でもある。 http://www.amazon.co.jp/Educational-Thought-Ideology-Modern-Japan/dp/0860085171/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=english-books&qid=1222984204&sr=1-1 授業がものすごかった。まずは、自由思想の理論の本を読み、またファシズムの本を読む。それで理論的な枠組みをつかんでおいてから、Karel van WolferenさんのThe Enigma of Japanese Powerという本を批判的に読んだ。 http://en.wikipedia.org/wiki/Karel_van_Wolferen 理論を把握しておいて、そのうえで、日本について書かれた本を手がかりに、その本を批判したり、あるいは日本の歴史や社会を分析したり、、、と、今まで体験をしたことのないような内容の授業を受けた。 で、ほとんどがディスカッションなのだ。 先生は、どっかりと足を机の上にのっけて授業をしていた。時々、スラングも出るのだが、「私の発したフランス語をEXCUSEしてくれ」とよく言っていた。 で、クラスの課題として、20ページか何かの論文を書くんだけど、私は、初めて、自分で資料を集めて、それを批判的に検討するという、当時はものすごく高度に思われる作業をやった。 初めて「分かった」と思った。 勉強するとか、研究するとはこういうことなのか、、、と。 で、先生が、なんと、その論文を授業で発表せよ、、、というようなものすごい機会をくれて、なんとか先生の助けを借りながら発表した。そのとき配った自分のペーパーの一部をクラスに配ったんだが、クラスメートの一人が、これはどこの論文からコピーしたんだ、、と聞いてきて、これは俺が書いたのだといったらえらくほめてくれたのがうれしかった。 そのあと、先生との消息は切れた。日本に戻り、卒業したのだが、アメリカの大学院に行こうと考え、先生に推薦状を書いてもらいたくて、消息を追ったが、どこに消えたのかわからない。当時はインターネットがなかった。1991年あたりの話だ。 シカゴ大学の大学院では社会学を専攻したのだが、1998年あたりだっただろうか、修士論文を追え、博士論文をやっていた私はあるとき図書館に行ったのだが、どこかで見たような人がエレベータの前にいた。 どっかで見たような、、、というような目でその人は私を見ていたのだが、エレベータの扉が閉まったので、あまり気にしなかった。 でも、どっかで見たような気がする、、、なあと私も思った。 続く…

Responses

Your email address will not be published.

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.