大学に入って、なぜ先生たちが本の内容を解説するのかが分からなかった。本を読めば書いてあることをなぜ1年かけて解説するのかがさっぱりわからない。そして年に2回の試験を受けるのだが、この解答が返ってこないことなども非常に不思議だったが、どうでもいいという気もした。

あと、京大のだちが数人いたが、彼らの授業がなんか始まらない?4月になっても始まっていないような気がしたのと、あと前期の試験が夏休みの後までない?とか、、、そういうこともなんとなく不思議だったことを覚えている。

分からない、、、という疑問もあったが、色んなことが*ない*のである。当時の日本の大学には(私が分かる限りでは)。

同志社のトイレにはトイレットペーパーもなかった。

なんでや、、、と私は愕然としたが、遅かった。

その足で、学生課に行って(今出川校舎だったと思う)、たのむから紙を置いてくれといったら、考慮するということだった。

だから、今、同志社大学のトイレに紙があるならば、それは私の業績である。1980年代の終わりころの業績だ。

あと激しく分からなかったことがある。

英文科では購読という授業があって、英語の本をちょっとづつ訳して読むのだ。これはフランス語の授業もそうだった。ちょっとづつ当てられて読んで訳すんだけど、このことの意味(意義?)がわからない。

訳がありゃ、それと照らし合わせて読めばすむことだ、、、と激しく思ったのだが、ひたすら訳す授業が次から次へとあるのである。

3回生(関西ではそう呼ぶ)のとき、先生が、「がんばらんと力がつかんぞ」とおっしゃった、、、。

なるほど、力をつけるために、訳しているのか?と感じた。

最終年度の最後のクラスで、英語指導法の先生が、言った。

皆さん、考えることが大切ですよ、、、と。

ええええ、、、、最後の最後でそんなこと言われても困るなあ、、、とまじで思った。

思い切って、英文科の友人に聞いてみた。英文学を勉強するってどういうことか分かる?と。誰も分からんと言ったので、なんとなくほっとした。

言語学の、これまた日本語の教科書を先生が解説する授業があったのだが、これもやっぱり意義が分からん。先生なんで、自分で読んだらだめなん?と。この授業の場合は、授業が始まると私は眠り始め、終わると目がぱっと覚めたのだが、これだけは本当によく覚えている。

日本語の訳を先生がしてくれても、その日本語が分からんという事件もあったが、先生も分かってないんでしょ?と今では分かる。

あ、あと分からんことがもう一つあった。ある先生が、自分がこの分野を勉強している理由は、私の恩師の何々先生が、XXX君、これ君、やってみないかね、、、と言ったからだ、、、と、ものすごくうれしそうにおっしゃった。その後、何回か同じようなことを違う人から聞いたり読んだりした。

え、どういうこと?

英語喉オンラインコースへ飛ぶ(ニュースレター登録をお願いします)

Follow me!

Leave a Reply

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.