さて、PROJECTXさんの音声を先日聞き、いつものように自分でもその音を真似し、そのときに感ずる体感に基づいてアドバイスをする、、、ということをこれまでやってきたが、特にPROJECTXさんの音声の場合、ご本人に、押し殺しているような声になっているかどうかわかりにくいというコメントもあったために、なるほどと思ったのだが、この指導法は役にたつように思う。

私が、まず喉実践者の発音を忠実に真似る、、、そうすると、私が喉や口で感じる体感で、あ、こうやっているのだなと分かるし、それに関して指導ができる。

これは、天満さんがやっているコピーイングに似ている。天満さんのコピーイングは、ネイティブのまねを学習者がするコピーイングだ。

すると、私がやっているのは、逆コピーと呼んでいいだろうか。

私自身が、学習者、実践者をコピーすることで、何をどうすればいいかをアドバイスできる。

しかし、考えてみると、これは当たり前の手法だな。ダンスの先生とか、「あなたは、今こうしているけど、これをこう直してね」という風に指導してくれる。

学校の勉強にも利用できるだろう。A君、君がこの算数の問題を間違ったのはね、ここでこう考えたでしょ。そこをこうしたら正しい答えにいたったんだよ、、、と。

これは、学習者がなぜ間違っているのか、なぜ迷っているのか、何が問題なのかを教師が確実に理解する必要があるのだ。

しかし、なぜ英語学習において逆コピー指導法がこれまでなかったかというと、それは、根本的なるパラダイム・思考回路に問題があった。その思考回路とは、、、

1.日本人は絶対にネイティブになれない
2.近づくことはできる
3.指導者も発展途上の人である。完璧でなくともよい。
4.指導者は英語発音をさらさなくてもよい。
5.英語指導者は必ずしも英語ができなくてもよい

この考え方は、先日YOUTUBEで見た上智大学の先生の英語講演でも明らかだった。先生は、いかに、日本のある高校の先生が、生徒よりも英語ができない可能性がありながらも、生徒から慕われていて、生徒がその先生のように英語を喋りたいといっている、、、という話をされていたが、これは、上の5にあたる。

これまでの教育パラダイムでは教師自体が英語ができなくてもよいということになっているのである。

しかし、逆コピー指導法が可能となったのは、日本人であっても、ネイティブ同然レベルになれるということが英語喉パラダイムによって分かったからである。

そして、英語ができて、気づいてみると日本人以外のノンネイティブは、ある程度英語を勉強したら、みんながネイティブみたいに喋り、書き、読んでいるのだ。もちろん、なまりはあるが、全く問題にはならないし、そもそも、なまりを直す必要がないし、また直そうと思えば、直せるけど、面倒だから直さないだけである。

これまでの日本の教育パラダイムは、教育が生徒のためでなかったのだと思う。教育は、先生の就職のためだったのだと思う。

いや、全てが就職のためだったのではないだろうか?

すでに就職している人は、就職を求めている人に、就職を紹介できるかもしれませんよという暗黙の了解でもって、一緒に酒を飲み、楽しい時間をすごす。就職を求めている人は、たぶん、この先生についていれば、何か紹介してくれるかもしれないという可能性を望みながら一緒に酒を飲むと。すでに就職をしている人でも、そのうち、いい大学とか、あるいは都会の大学に引っ張ってくれるんじゃないかとかね。

もちろん、酒を飲むから悪いといっているわけではない。いつかひずみがくるだろうということだ。

その制度は、生徒も先生について言っていれば、就職にありつけるという可能性があったから存続したのだろう。しかし、そういう前提が崩れた今、教育は、本当に結果をださないといけなくなった。

しかし、気づいてみると、やる気と真実のメソッドさえあれば、自分で勉強できるというのも確かだ。

学校の授業とか自体が邪魔におもえてくるかもしれない。

もう20年以上も前の話だが、そういえば、私自身は、高校や大学の授業は、どちらかというと邪魔だったな。

だって、大学では一冊の日本語の本で、英作文の方法みたいな本を1年かけて、読むんだから、、、。自分でよめば2時間で読めるのに。

そして、それが、英文科の必修の授業だったのだ。

やっぱり、それって、前の日、酒飲んでてもできる授業スタイルってことじゃないのかな???

あの本自体、実際教えている先生たちが書いたものだったから、英文科生の全員が購入すると、宴会代ぐらいになったのかもしれない。

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3 thoughts on “分析方法としてのコピーイング(逆コピー?)

  1. アキ says:

    カズ先生こんにちは。
    日本は、全国的に晴天です。

    それにしても、日本の英語教育とは不思議だ。英語教師が不思議と言うべきか?
    もし、日本の数学の教師達が、自分たちは数学ができなくても良いのだと宣言すれば、どうなるだろうか? くびにならないか?
    こんな連中から、誰も教えて欲しくないと思わないか?
    英語教師がみんな英語の運用能力がないから、お互いに傷をなめ合っているだけの状況なのでしょうか?

  2. Zaku says:

    横槍すみません。

    >それにしても、日本の英語教育とは不思議だ。英語教師が不思議と言うべきか?もし、日本の数学の教師達が、自分たちは数学ができなくても良いのだと宣言すれば、どうなるだろうか? くびにならないか?こんな連中から、誰も教えて欲しくないと思わないか?

    言い過ぎじゃないでしょうか。数学の教師も数学者やもっと根本的な数学能力を有している人にはかなわないことは分かっています。ただ英語は、現地で育った人が数学者なみの特殊能力を有しているとは言えない為、そのような発言を極端に言われているんだとは思いますが。
    優秀な方も周囲と比べてはじめて自分が勝っていると感じるんだと思います。本来、その方にとっては特殊能力でもなくただの能力にしかとらえていないと思いますよ。そういう方は周りの方が気付かない法則や方法に自然と気付いていく方が多いです。(先天的な天才もおりますが)
    学校の先生方が妄信的て聞く耳をもたない姿を批判される気持ちもわかりますが。(一般論としてご批判されていることは重々承知しております)

    >英語教師がみんな英語の運用能力がないから、お互いに傷をなめ合っているだけの状況なのでしょうか?

    適切なトレーング方法が分からないために迷走しており能力の開花が遅れているが実態ではないでしょうか。

    子どもが新しいおもちゃを見せたくなる気持ちもわかりますが、そこに優位性を感じたりひけらかす方向に向かうのは間違いだと思います。気付かれにくいことをどのようにすれば、共感して頂き、気付いていただけるか そのことに心をくだかれるほうがお互いhappyになれる気がしてなりません。

    私の発言はたわごとですのであまりお気になさらないでください。

  3. 上川一秋 says:

    アキさん、ZAKUさん

    私もちょっと間違って書いたのですが、高校の授業で邪魔だったというのは訂正します。英語の授業は邪魔ではなかった。

    例えば今、フランス語などを鍛えたければ、先生が丁寧に文法を説明してくれるような授業は有益に思えます。発音や聞き取りは自分でできるけど、文法は面倒なので、いちいち教えてくれると有益かもしれない。

    邪魔だと思ったのは正確には大学のクラスです。

    最近、鳥飼先生が、最近の大学生の英語レベルが下がってきているということをおっしゃっていて(文部科学省がコミュニケーションを重視したらからそうなったそうです、、どういう発想なのか???証拠は???)、それは違うなあと。昔から英語レベルは低い。でも、きっと、そういうことを言うのは、説教が好きだからだと思うのです。研究じゃなくて。

    あと、たぶん、実際には英語もできないのでしょう。英語のできる人、聞ける人の発想ではない。

    精神論の説教するのは、ちょっと知的HONESTYにおいて、まずいのではないかと思うのです。正直さというのが求められる。

    英語教育に関して発言するならば、まずは自分自身が英語ができることを証明したうえで、プラス研究に基づいた発言を大学の先生には求めたい。

    外人の本を読んで、それをまとめることは研究ではなく、それは夏休みの読書感想文です。

    研究をしていなくて、査読付の論文もないのであれば、発言はしないほうが良い。

    ただし、その場合は存在意義が不明です。

    お父さん、お母さんたちは、必死の思いでがんばって、子供たちを大学に行かせていることを忘れないでほしい。

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