April 21, 2011

喉の心理学

香港からの人に対して、ちょこっと知っている中国語のフレーズを、ちょっとだけ喉発音ぎみで言ったら(プラス、ものすごいお調子者のように、シラブルを強調して読んだ)、「あなたは絶対に中国人の彼女がいたんじゃないか?」と、言われて困った。目がマジだ。 まさか、私は中国語の学習本を一度も見たことがないとか、実際、一回も、勉強しようとして中国語に接したことがないということを言っても信じてもらえない雰囲気だった。 中国語は英語のような喉発音というわけではない。口発音傾向が強い。しかし、喉のところで音を切らないので、アクビエリアぐらいはつかって発音するとうまくいく。そうしないと中国語のLとRの違いなどだせない。 さて、よい体験をした。 喉実践者+アメリカ人で談笑していたのだが、喉実践者氏と日本語でも喋っていたために、英語を喋るときに、ちょっと体が緊張ぎみで、声が小さく、また響きが少なくなった。 それを喉実践者氏につっこまれてしまったのである。「響きがたりてませんよ」と。 これはうれしかった。なぜかというと、これまで英語喉を提唱してきて、逆に、つっこまれる、アドバイスをもらう、というのは、そうそうないからだ。 その指摘を受けて、あ、そうだと思って、大きな声で喋った。 さて、そこにはアメリカ人が3人いた。一番遠く(2メートルぐらい)にいるアメリカ人が、何か、私に喋りたそうな顔をしていた。 変だな、、、、、。 タイミングをつかんだ彼がこう言ってきた。 「俺は日本語を大学で2年まなんだんだ。」 と。 あ、だから、日本語を話す俺に、そのことを言いたい顔をしていたのだな、、、と。 なぜ、これがうれしかったのかというと、それは私自身が、よくスペイン語を喋る人に話すときに、「私はあなたの言語を喋りますよ」ということをアピールするときの気持ちと同じだ。 あるいは、英語をまだ大学ぐらいのとき勉強しているときに、留学生に英語を教えてもらいたいなあと思った素朴な気持ちに似ている。 なんか、平等な感じがしてよい。そういう人の素朴な気持ちを経験できるのは、英語喉で、他の国の人と、完全に平等な立場になれているからだろう。 落合信彦氏のアメリカ留学の経験のエピソードが面白いのは、落合氏がアメリカ人の学生達と全く同じ立場にたっている様子が描写されているからだ(アメリカ人と喧嘩して空手を使うとか、そういうような話、、、ブルースリーみたいだ)。しかし、英語喉なしでは、そうはいかないのが普通だ。 二つのエピソードを紹介した。ひとつめは、私が普段、人に対して指導(?)していることを、他人が私にしてくれた、、、と言う点で、なにやらうれしい。 英語喉の世界には、厳密には、先生VS生徒という、永久に変わらない身分制度はない。 英語喉の世界は、自分が自分の先生になるのだと思う。 二つめのエピソードは、これも英語喉さまさまなのだが、喉発音をしているから、アメリカ人が普通に接してくれるわけだが、そういうなかで、あちらからこちらに、話してみたいという感じで持って話をしてくれるのは素朴にうれしい。 英語喉を経験していない場合は、いつまでも、ネイティブへのあこがれと憎しみみたいなものがいつもつきまとう。 しかし、英語喉をやると、西洋人はただの人になる。英語はただの言語となる。 コーヒーブレークとして、機関銃英語に載せる予定だったけど、スピースの関係で載らなかったことがある。それはジーナのアドバイスだったが、英語喉で西洋人に接するとき、特に、日本で接するときに、「外人だ」というスタンスではなく、他の県から来た人みたいな感じで見るといいというアドバイスだ。 つまり、お~、外人!って感じではなく、 あ、アメリカ県から来たの?わしは、広島じゃけん、、、 みたいな感じで付き合うのがよいそうだ。 いいアドバイスだな~~。 でも、よく見ると、ヨーロッパの人とか、イタリア人とかフランス人とかおるけど、彼らのお互いに対する視線は、そんな感じですな。 アジアの国々も、違う国という感覚ももちつつ、違う県から来た、基本的には同じ人間、、、って感じになるのがよいのだろう。

Read more