April 2, 2010

ベトナム人の奥さんの英語のほうが通じたというエピソード

http://ameblo.jp/o-shirai/entry-10466841447.html は、言語学者の白井恭弘 先生のblogですが、アポロオーノさんのことが書いてあります。その記事も興味ぶかいですけど、今回、面白いと思ったのは、その記事にコメントされていたかたのエピソードです。ずーと下にコメントがあり、そのタイトルは、「発音と母語の干渉」というやつです。 その日本人のかたの奥さんはベトナム人で、英語力では自分のほうが、上だと思っているのに、他の国(マレーシア)に行ったときに奥さんのほうの英語がよく通じたというエピソードでした。 これはおそらく、シラブルの関係だと思います。シラブルの数が増えてしまうのは、韓国人と日本人だけです。例えば、spring roleは本来2シラブルなのに、日本人がいうとどうしても、増えてしまいます。 す、ぷ、り、ん、グ、ろー、る と。訓練しても、どうしてもSPRを口で発音するとSUPURIとなってしまう。 これで思い出したのですが、ジーナとベトナムのラーメンを食べにいったら、私には聞き取れないのに、ジーナには通じているということがよくありました(前は)。例えば、大ですか?とサイズを聞かれたとき、LARGEの発音が、単にラーに私には聞こえるんです。だから、「え?」と聞き返していましたが、ジーナには確実に通じています。 シラブルというのは本当に大切です。 だから、日本語英語でも大丈夫ということには絶対にならないわけです。個々の音で見れば、確かに、色んな英語がありますが、シラブルの数が違うのは、日本語と韓国語だけだからです。    

Read more
英語喉パラダイムは、ネオ(=新)日本人論である

私の世代が大学生のころ、日本経済は絶好調だった。そして、それを支えるかのように、当時、日本人論と呼べるような言説群があった。おそらく、現在の藤原氏の「国家の品格」はその流れだろう(よしかわさんが、コメントで藤原氏の言説について触れられている)。 そのスタイルの日本人論の限界は、それを主張する人が、終身雇用的な立場の人に限られたという点ではないかと思う。生活を心配する必要がない人だけが語ることができ、そして、その語られたことが真であると認識される、、、というパラダイムだったと思う。 英語喉のパラダイムは、やや古めの日本人論のオータニティブ(代替物)になりえると思う。真の意味で、英語が、たかが英語となり、外国人と日本人を真の意味で対等の位置に立たすことになるからである。さらに、いかに我々の日本文化のどこからどこまでが独特であり、どこからどこまでが普遍的かを教えてくれる。 そして、その新しい言説のリーダーが普通の人でありうる点が、私が一番期待しているところだ。この点が旧来の日本人論と最も違うところではないだろうか? 中学生でも小学生でも、英語喉をマスターするならば、英語の音どころか、フランス語やイタリア語なども音として理解できる。だから、どんなに大学の先生が、英語は強弱アクセントです、、、などと言ったとしても、自分が聞こえているのだから、堂々とそれを批判できるだろう。 例えば、古いタイプの日本人論者が、「西洋人は労働を罪ととる。それは、聖書の世界で労働は罰として人類に与えられたとされているからです」と言ったとしても、小学生でさえ、英語喉で喋っていれば、そういうことは、外国人との話のなかで「違うのだ、、、曲解だ、、、」ということを言うことができるだろう。古いタイプの日本人論者が、日本人だけが、わびさびを理解できる(これは藤原さんが言っていたと思う)、、、と言うならば、中学生でさえ、先生、外国人でもそういう理解ができますよ、西洋の博物館に行ったら分かりますよ、、、と言うことができるだろう。 私は古い日本人論者は、日本語の世界のなかだけで、英語や外国語の文献を訳してきたのではないかと思う。新しい世界では、外国の本も読むだろうが、実際に、外国人と話をしたり、友人となったり、また外国を訪問するなかで、新しい理解を得ることが可能だ。 例えば、日本の捕鯨や、あるいはイルカ漁について、批判があるが、そのあたりの批判も、外国人の言っていることを人間の言葉として理解し、新しいレベルでの理解をすることができるかもしれない。 英語喉パラダイムは、日本文化をよりよく理解するための鍵を与えてくれると思う。例えばだが、我々の書き言葉、ひらがな、かたかな、漢字、、、これはは、日本語が口発音であることと無関係だろうか?日本人が口で発音しはじめたために、発音可能な母音が5つだけになってしまった。そして、一つのシラブルには基本的に二つまでしか音が入らない。この縛りのせいで、ものすごい数の「発音が同じで意味が違う単語」が生まれた(例 蚊、科、課)。基本となるヒラガナの種類が異常に少ないのだ(同じく母音自体の少ないスペイン語も例としてあるが、基本的にシラブルに音が3つ入るので、ヒラガナにあたる単位が無限といっていいほど多くなる。) これらの単語の意味を区別するためには、音程(イントネーション)を変えることができるが、書き言葉ではそれができない。そのために、ものすごい数の漢字を使うことが必要となる。そうしないとわけがわからなくなるのだ。 例 きしゃのきしゃはきしゃできしゃしました(=貴社の記者は汽車で帰社しました)。 私はオフィスに江戸時代の、東京大学のあった場所の地図をかざりで貼っているが、当時から当然、漢字はものすごく使われていた(あたりまえか)。それが読める人が、もちろん、高い地位についたのであろう。当時の社会階層のプロセスと、猛勉強はきっと相関があったはずだ。 口発音ーー>漢字の使用ーー>猛勉強しないといけない というようなカラクリのなかで我々の日本文化はどのような発展をとげただろうか? 実際、英語喉を教えていて、勉強した年数が長ければ長いほど、口発音の癖が抜けにくい。そういう意味で、NITROさんは、ちょっと独特だと思いました(突然、失礼)。  

Read more