November 13, 2008

言説の余剰 あふれるほどの 近代社会の見えない敵か?

昔の友達が、中学の数学でつまずいたのは、急に割り算の書き方が変わったからだというようなことを言っていた。で、勉強が嫌になったといった。 3 * 5= 15があるとすると、5を右に持ってくることができるが、そのとき、左で掛け算だったものは右では割り算のようなかたちで15の下に書かれる。 3=15/5 、、、みたいなやつだ。小学校でならば割り算のマークを使うが、中学では、割り算を表す線を引くわけだ。急に分数みたいになるわけだ。   話が変わるようだが変わらない。分数も同じように色々な書き方がある。 3/6は6分の3と読む。3 1/4 は3と4分の1か(斜線を引くのはもしかしてアメリカのやりかた?日本では分子と分母はたてに積み重ねたと思う。) あとわざと分母が違う計算をさせられたりする。非常に面倒だ。   一体、何が言いたいのか?私が言いたいのは、これらの色々な書き方、そしてそれにまつわる知識の形成は まぼろしである、、、、 ということである。   私や私の同級生を進級の制度のなかで区別し、点が多いほうを、いわゆる良いとされる学校へと選抜されていく仕組、これを支えているいわゆる勉強の知識は、実は幻だった、、、というのが本稿のポイントだ。   この点を議論する前に、ちょっとはしょってしまうが(これ広島弁では使わない表現)、これから述べる理由で、私は、「受験用の問題などを持ってきて、それを解くと頭が良くなる」とか、「美しい文章を声を出して読むと、なんかしらんが良い」という言説群に触れると、非常にいやな(?)複雑な(?)気分になる。(もっと具体的に言うと、きっと斉藤孝さんとは話が根本的なパラダイムのレベルで合わないような気がするhttp://www.chikumashobo.co.jp/special/saito/ )。身体論の解釈が根本的なレベルで違う。ある意味で喉は身体論である。   さて、戻ると分数をめぐる色々な書き方は、まぼろしだと確信する。分数は単に割り算にすぎない。そこで終わっておくべきなのだ。この2週間ほど、あるデータの仕事で、サンプルウェイトというやつを計算していたのだが、その計算は基本的には分数だ。10の団体でサーベイをしたとして、ある団体では50人職員がいるのに、30人しか調査票(アンケート)に答えなかったら、サンプルウェートは50割る30でサンプルウェイトは50/30となる。   実際のデータを見ると、50人しか職員がいないはずなのに、60の調査表が返ってきていたりするから、色々と複雑な計算が必要となる。   サンプルウェイトが大きすぎてもいけない。1000人職員がいる団体で10人しか答えてくれなかったら、1000割る10だから100.これは一人の回答者で100人分を代表しますと言っているようなものなのだが、それは無理。サンプルウェイトが3とか5なら別によいだろう。一人で3人分、5人分、代表します、、、と。   で、どこまでサンプルウェイトが大きかったら、調整するかという式があったり、その調整の仕方の式があったりで、結構面倒だ。   で、これをプログラミングでやる(SAS言語というのを使っている)。プログラミングでやると、割り算は単に割り算だ。全然、3 ¼(3と4分の1) とか出てこない。   どんなに複雑な計算になっても、単に / (割り算を表す斜線)だ。 つまり、実際には単に/ なのに、それを色々とこね回し、それが試験の材料に使えるからという理由か、こねてこねてこね、単なる割り算が、「試験の知」となり、国民の将来に大きく影響を与えてしまう。その知は、世の中で全然使えないし、実際、いらなかったりする。   国家の品格の藤原さんならば言うだろう。役に立たないことでも大切、、、と。そういう角度からここに書いていることが批判を受けるかもしれない。   しかし、本当に役に立たないどころか、単に、そういう語り方が可能だ、、、つまり言説実践が可能だというだけで、いらないことが、あたかも大切なことと勘違いされ、それが教えられるということはありえる。 喉の社会的影響として期待したいのは、我々が自明のこととして、試験の知として使っている言説の体系が本当に意味のないことではないか、、、と思わせてくれることである。反省の機会を与えてくれる。   とりあえずは、英語の試験で問われるアクセントの位置の問題などが良い例だろう。アクセントの位置など覚えても意味がない。アクセントの位置が違っても通じるし、また喉のゲップエリアとアクビエリアを使い分けておれば、英語の音の上下が自然にできる。   アクセントの位置を覚えるのは一生かかるが、喉本でゲップエリアとアクビエリアを覚えるのは、どちらかというと短期プロジェクトだ。   役に立たないけど大切なことがあると人は信じこんでいるが、実際はこうだろう。あることが役に立つという幻想を社会が信じているかぎりは、そのことを教えている人の仕事が保証され、またその試験知を信じて、競争に勝ったものが短期的には得をしたような気がする、、、と。   しかし、少しづつ社会はこういう言説を捨てていかねばならない。   今でも覚えていることがある。同志社の3年ぐらいのとき、英語に興味があったので、外交官の職業とは何だろうかと思い、近くの古本屋にいったら、試験の本があった。たくさんの暗記だったから、時間がないなと思った。また東京大学を卒業していないと不利だと聞いた。東京大学だと先輩の特別指導が受けられるというようなことを実際聞いた。だから、やーめたと思った。別にものすごくなりたかったわけじゃないのだが、試験知というものが、人の将来の選択に影響を与える一つの例である。 (その後、シカゴ大学で大学院に行ったときに、省庁からの外務省も含む国費留学生がたくさんいて、給料のみならず、学費は当時で年間200万円ほどのものも税金から出してもらい2年も勉強できるという制度があると知り愕然とした。その待遇がうらやましくもあった。で留学の成果はと聞くと、英語会話ができるぐらいになっただけですとか、統計がちょっと読めるようになりましたと謙虚に答えられていたのだが、それなら最初っから英語ができる人、統計が読める人を国家は雇うべきではないかと疑問に思った。ただし、本気で国家公務員になろうと思う人は、大学時代、試験の準備に忙しくなり、英語やら統計を本当に使えるようになる勉強はできないだろう。そこにも矛盾がある。) 我々の教育、職業選択を奪うのは言説であり、それも余剰なものである。もちろん、そういうと批判を受けるだろうが、批判する人は、たいてい、ある知識が役に立とうと立つまいとすでに関係のない立場にいる人ばかりだ。具体的に言うとすでに就職して終身雇用のなかにあるとか。 現代社会において真なる自由とは何だろうか。   […]

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