February 25, 2008

トンネルを抜けると暗記問題だった

従来の英語発音の練習は暗記問題だとは思われていない。どちらかというと体育会系のトレーニングだと考えられてきた。   従来のトレーニングは実は姿形を変えた暗記科目であったということを指摘したい。   従来のトレーニングは、逆説的ではあるが、誰でもできること、、、が教えられている。   音の強弱               人類であれば誰でもできる 音程の上がり下がり     人類であれば誰でもできる 音を伸ばす             人類であれば誰でもできる 唇を丸める              人類であれば誰でもできる 舌を口の屋根のある部分につける 人類であれば誰でもできる やたら強く読む         人類であれば誰でもできる 激しく摩擦を起こす   人類であれば誰でもできる 毎日続ける              人類であれば誰でもできる   ただし、これらの誰でもできることをやっても、決して正しい英語の発音ができなかった。 それは英語音の核となる喉のことを忘れていたからだ。それから英語のリズムの基本となるシラブル、そしてシラブルの仕組みを事実上無視していたからだ。(例外的にシラブルが教えられている場合でも、それは発音に関することのようで、特定のシラブルの組み合わせをとにかく繰りかえす、、というセットアップである。)   上に列挙した数々の項目は、我々を出口のない勉強へと導いた。そしてその勉強とは、実は暗記問題だったのである。何億もの組み合わせが可能な文章、そしていろんな読み方が可能なのに、上に列挙した項目で説明を加え、主語だったら強く読むとか、意味的に大切だったら強く読むとか、そういう風に、矛盾しているルールをむりやり押し付けて、何億もある文を練習する、、、という、とてつもな巨大プロジェクトに、国民が借り出されたのである。   これは英語だけのことだろうか。我々はさまざまな分野で姿形を変えた「暗記問題」という怪物に自由を奪われていないだろうか。   憲法の保障する「学問選択の自由」、「職業選択の自由」がこの暗記問題という怪物によってないがしろにされていないだろうか。   医者になって人を救いたいと思ったことのあるあなた。あなたの職業選択は保障されているだろうか・いただろうか。   法律を勉強して世のためになりたいと思ったことのあるあなた、あなたの職業選択の権利は保障されていただろうか、いるだろうか。   我々はあらゆる知識を暗記問題に変換することで、憲法が保障しているはずの学問、職業選択の自由を、制限していないだろうか。制限されている、、、とは分かりにくいかたちで。   「自分で選んだんだろう。始めたことは最後まで、がんばりぬけ。」という言い方をよく聞く。「初心を忘れるな」という言い方もよく聞く。   本当に、最初に自由な選択があったのだろうか、あるのだろうか。  

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