ラジオを聴いていたら、スティーブジョブスのような人物は今後アメリカに現れるのか?みたいな問いに、あるコメンテーターが、アメリカの若者で、お金はなくても、

希望と教育がある

ので、だいじょうぶじゃないか?と言っていた。

一体、教育とは何かを考えてみると、、、

教育というのは、1)なにかができる人が、できない人に教えて、できない人をできるレベルにするということ、、、だろう(そしてその過程で、できる人も、できない人から逆に学ぶことがあったりするだろう)。

そして、(2)そのできる内容が、役に立つことが大切だろう。これは英語ではRELEVENTであること、、となるだろう。

はるか昔だが、私は一緒に住んでいた祖父母から、農業の基礎を教えてもらったのだけど、それは上の(1)と(2)をよく満たしている。い~ろ~い~ろなことが、実際に存在するものをどう動かすかということだ。

くわの使い方だが、いもをほるときに、ざくっとくわを入れる、、、そして、それをこての要領でぐわっと土を掘り返すと、そこに、さつまいもが、登場する。さつまいもに傷がつかないよう、大きめな土のかたまりを掘り起こすのだ。シャベルカーのようである。

みかんを「もぐ」ときは、みかんのヘタ(くきのところ)をいったん切ってもいだあとに、短く切らないといけない。なぜならば、鋭角になった聞茎が他のみかんに傷をつけてしまうからである。

水田に苗を植える作業は、ポイントは、どうやって、まっすぐに、また等感覚に苗を植えていくかであるが、これは、紐のようなものをまずまっすぐ張る。そして、その紐には、等間隔に目印がついているので、そこをめがけて苗を植えるのである。

なんとすばらしい工夫なのか!

びわの栽培の場合だが、面白いのは、びわに袋をかけるプロセスだが、その袋自体をつくるのも、物理の法則とまではいかないけど、もっと感覚的なるコツがある。新聞をかさねておき、ちょっとづつづらしておいて、そこにのりを塗ることで、一発で何枚もの袋をつくってしまう(これは文字では表しにくいので、あまり追求はしない)。

耕運機は、田に水を入れて、それから田んぼを耕すのだけど、方向転換のときも、耕運機自体を後部を持ち上げながら、円を描くようにして、方向転換をするのだ。これも、また幾何学の応用のようであるが(いや、逆だ、、、現象があって理論がある)、すべて、感覚的で本能的な勘がいる。

このように小学校時代は、感覚的、本能的、肉体的な教育のようなものが田舎にはたくさんあるのだけど、ちょっとづつ、そういうのがなくなっていって、文字の世界に入ってくる。

本を読むのが大切だということになる。

暗記が大切になり、試験が大切になる。

自分が自分でなくなっていくプロセスのように思える(そして、非常にやっかいなのは、このプロセスで勝者となった人のみが、その制度にコメントできるという雰囲気があることじゃないかな)。

しかし、今、仕事をしていて使っている知識は文字を通して学んだというより、実際にやってみて、身につけたものばかりのような気がしてならない(統計プログラミングなど)。

最近、ラジオ放送を始めて(いや、剣道も関係しているかもしれない)、大昔の感覚を取り戻し始めている。それは、放送のために、色々な器具を使っているのだけど、その使い方が必ずしも、教科書的にはいかず、結構、感覚的、体感的、本能的なのだ。

MIXERの使い方、配線のしかた、ボリュームのコントロール。

理論で解決しない問題がある。例えば、このあいだの放送では私の声が微妙にちいさかった。それはなぜかというと、ヘッドフォンで音のバランスを聞いているときに、どうしても、自分自身の声が喉から頭のほうに響いてくるので、実際よりも大きめに聞こえてしまう。

だから本当のプロならば、MIXERの専門家が、スタジオの外で音を調整するのだろう。

配線にしても、モノだったりステレオだったりの配線でやりながら、結果を聞いてみながら調整する。

いろんなことを勉強できた。YOUTUBEを見ていると、例えばビデオ機からどうやってPCに配線をするか、、、というのを小学生(アメリカ人)が説明してたりする。なるほど、字の説明でなくて、こんな感覚的な説明が動画として、今ネット上にたくさん存在するのか~~。

PC2台はいると、本には書いてあったのだが、ネット上の説明によると、あるソフトを使うと1台でいいらしい、、、とか、色々である。

日本の教育は、文字だけで学ぶという方向に極端に走りすぎているのではないだろうか?

文字だけで学んでいるから、歴史教科書で何を選ぶかが問題になったりする。

国語など、文字を追求しすぎて、あげくのはてには、声に出して文字を読むとか、やけくそ状態じゃないか?

情操教育のために古典を、無理やりでも、読ませろ、、みたいなことを「国家の品格」の藤原先生は言っているけど、情操教育ってのは、家族で遊んだり、楽しんだり、笑ったり、あるいは(ペットが死んだりして)泣いたりしているうちに自然に出てくるもんじゃないのかなあ。

上で説明した農業だって、究極的には力学だったり、幾何学だったりだ。体を動かす、なにかを動かしてみる、などという原始的な体験を、知識に結びつけるような教育がよいのではないだろうか?

英語喉だって同じだ。発音できる、聞き取れる、、、つぎは友達づくりに挑戦する、、、そのうち、外国流のマナーなども身につくかもしれない、、、いろんな方向に学ぶが分散する。そして、いつのまにか、それがビジネスにつながるかもしれない。

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